基 調 講 演

「わが国のまちづくりの進むべき方向」

社会資本整備審議会都市計画 ・ 歴史的風土分科会 会長
特定NPO法人 日本都市計画家協会 会長  黒 川   洸

 ただ今ご紹介いただいた黒川でございます。
 今日は標記の題でお話しますが、その元になっているのは、社会資本審議会の都市計画部会等で議論しているところで、皆が気にしている問題は何かということと、日本では少子・高齢社会と言っていますが、これがどんな問題を含んでいるのかということをお話しながら、先ほど佐藤先生が住民と市民、本日の主題である地域の意味合いなどについて触れられましたが、我々が悩んでいる問題についてもお話したいと思っています。
 少子・高齢社会といいますと、すぐ人口が減る、高齢者が増える、若者が減るというイメージを持つわけですが、実はそうではなく、色々な意味で家庭、世帯というものが、質的に変化していることがより大きな問題だと思っています。昼食後で眠くなる時間なので、少し運動をしましょう。女性の方はどのくらいおられますか?挙手してください。20代以下の人は…ゼロですね。30代は。40代は。50代…圧倒的ですね。60代…かなり迫っている。70代以上はぐっと減っています。これをベースにやります。なぜかというと、今、大学の学生と話をすると、昭和とか平成ではなく西暦で言わないと分からない。今日ご出席の半分以上は、西暦で言われると分からない人です。


 このスライドですが、最初は昭和35年、西暦では1960年です。その頃は、上の方は家族が多い、一番上は1世帯5人以上の数ですが、平成12年(2000年)では、1人の世帯、2人の世帯が50%です。普通、世帯というと核家族という言葉が標榜され、夫婦2人に子供2人、4人家族が都市計画の元となる世帯と思い続けて、都市計画が進められました。それが今では、下手をすると1人と2人の方が圧倒的で、例えば市営住宅や道営住宅を作っている時には、この核家族をベースに考えていましたが、1人とか2人を中心に考えねばならない世の中に変わってきています。
 60代の方というのは、郊外の庭付き戸建て住宅が、自分たちの終の棲家だと思い、一生懸命仕事をし、自分の家を建てることが一つのターゲットになっていたかと思います。50代の人もそうではないかと、私は思うのですが。しかし、男の考えと女の考えは違います。男の人は非常に横暴で勝手な人たち。自分は絶対、女房より先に死ぬと確信している人、違いますか? 私もそう思っています。ところが女性から見ると、親と育った人生が3分の1、夫婦で暮らすのが3分の1、別れてから(別れ方にも色々ありますが)が3分の1ということになると、最後の3分の1の時期、郊外の庭付き戸建ての住宅は、本当に安全・安心な住宅でしょうか。そういう意味で、今まで北海道の様々なまちでも、自動車に乗れば郊外の安い土地に、ある程度の規模の家を建てられたのですが、それが本当にいいのだろうか。むしろ、そんなところに住みたくないという人がいて、男は先に死ぬと信じていますから、自分は退職してからは緑に囲まれ、庭を造ったり、ゴルフをするために郊外に住みたいと思っていますが、女性は都心のマンションに住んでいれば、夫が死んでももっと安心して暮らせると考えます。それをまちづくりのベースに置いておかないと、間違えてしまう。ですから少子・高齢化というのは、そういうことも考えなければならないということです。
 もう一つ、今まちづくりで考えなければならないのは、平成の大合併です。岩見沢市も合併して、だいぶ大きくなったようです。人口も1万人ほど増えたということですが、北海道は村がなくなったというのは正しいですか? インターネットで総務省のを見て作ったらこうなったのですが。総務省の考えでは、小規模市町村では財政規模が小さいので、今後の市町村行政がやりにくくなるから、大きくして安定的にしたいという大合併を促進しました。そうすると、今まで3,300ほどあった市町村が、約1,800になった。今では、まちづくりという言葉と都市計画という言葉が、どうも違ってくる。けれど、都市計画でいう都市とはどこなのだろう、という問題にぶつかってしまう。


 大合併の前は、何となく市町村が一つの都市だと思っていても、大都市圏以外ではだいたいいいだろうという思いがあったのですが、大合併してしまうと、一市町村を一つの都市と考えた方がいいか非常に疑問になってくる。日本人は、都市という概念を自分たちのものとして持っていません。ところがヨーロッパ、アメリカ、中国などは明確で、都市とは城壁で囲まれた場所です。要するに城壁の中は街であります。ですから、パリやロンドンに行っても、昔の城壁跡が残っていて、パリなどは人口が増えてくると、オスマンのパリの大改造計画などは、城壁を外に広げていくことです。そこまではパリの街であるとしました。それが産業革命後に、もっと広い地域が都市の中に入ってきて、今では例えばミュンヘンなどは昔の城壁を全部取り払い、都心環状道路にしました。ですから、その環状道路より中が昔の街です。
 また、先ほど佐藤先生が「市民と住民」という言葉を使われました。我々も、日本に市民はいるのだろうか、ということを議論しています。今のところ、日本に市民はいない、住民しかいないという認識の方が、色々な制度を設定する際にいいのではないかという議論をしています。ではそのときの市民とは何か。英語で言うcitizenとかcitizen shipというのは何から出て来たかというと、封建制度の時代に王様あるいは領主に対して戦い、自分たちが自治権をとった、それが都市です。自治権をとったので、市民の人たちには常に自分たちの権利を守る、あるいはまちを守る行為をする義務、そのために協力する義務があります。それなしに自分たちは市民であり得ない、そういう概念です。ところが日本は、都市計画制度を導入してきましたが、どちらかと言うとお上が決めて、その通りやれというかたちで、明治時代からずっと来たわけです。戦前は、権利と義務からすると、国民に義務を強要した。戦後は、占領軍が抑圧された日本人を解放しようと、今度は権利を与えようとした。今は、どちらかと言うと権利が非常に重要な問題である。権利を主張することが、進んだものの考え方であるように言う人たちがかなりいます。最近では小学校でも、過保護な親、自分の子供さえ良ければいいという親が問題になってきています。病院の治療費不払いなど、そういうことを平気でやって、当然であると堂々と言う人が増えてきています。
 次のセッションで是非議論していただきたいのは、担い手は誰かというのが一つの大きな問題です。今、住民参加と言います。我々が困っているのは、参加は結構だが、ものを決める時にどうすればいいのか。どうすれば決定ができるのか。ありとあらゆる手を使って、反対だけを言い張る人たちはどうすればいいかといった問題があります。「俺たちが入っていない」と参加を強く求める人がいますが、入れたとしてもそういう人たちは、延々とただただ反対する。佐藤先生も言われたように、自分が我慢するということがない。それが住民なんですか?というような問題があるので、都市とはというところまで戻って色々議論し、今日の第一・第二セッションでは、そのようなことまで触れさせていただければ有難いと思っています。
 国土交通省の都市地域整備局で、全国の都市圏というものを作りました。実はこのベースの作業は、私が属している財団法人の研究所で作業したものですが、それに国土交通省が若干修正をしています。これは、2000年の国勢調査で人口10万人以上の都市を取り上げ、その中心都市周辺の市町村から、我々の言葉で言えば通勤5%圏、要するに周辺市町村の就業者のうち、10万人以上の都市に勤めている人が、そのまちの就業人口の5%以上が通っている場合は、その都市の都市圏のまちであると定義しました。北海道をみていただくと、都市圏という圏域としては札幌、函館、旭川、帯広、釧路しか、都市らしい都市がないように見えます。北海道の他のまちで、まちづくりは行われていないのか。まちと都市はどのような定義か、ということも一つの問題になるわけです。


 DID人口というものがあります。これは英語で書いていますが、日本語です。昭和35年の国勢調査の際に、こういうものを定義しました。これを簡単に言うと、人口密度が40人/ha、あるいは平方q4,000人が連担している地域という意味です。1ha・100m×100mの地区に10戸の住宅が建っているというイメージです。そこが市街地と定義してみたわけです。今、そういう地域に住んでいる人は8,000万人おり、都市圏人口のうちのDIDは97%です。1億2,700万人のうち8,000万人、約7割の人が市街地というところに住んでいることになります。現在は、法定の都市計画区域でいくと、約9割の人がその区域の中に住んでいます。ですから、その他の地域に住んでいる人は、本当にそこに住んだ方がいいのか、こういう都市圏の中に住んだ方がいいのか、という議論が出てきます。私はどちらかというと、そういうところに人が住んでもらわないと困る。それは、人が住んでいないと、その地域にある資源が荒廃する。戦後であれば、治山治水はそこに人が住んでいないと非常に荒れてしまうということもあるし、こういう場ですからはっきり言えば、国防上の理由です。今の日本国では、国防という言葉は国会でもどこでも使ってはいけない。使えば大事になります。しかし、実際は国防上のことを考えねばならない。市街地以外に、人が住んでもらわなければならない事情があります。
 そういう意味では、今まで市町村と都市は、1対1の関係でもよかったかと思いますが、そうではなくなりそうです。国土交通省は、来年から2年間かけて、都市計画法の抜本的見直しをします。抜本がどこまでかは後ほどお話しますが、先ほど岩見沢市長が、当市は3分の1が農地と言われましたが、多分もう一つ、どれくらいの林地があるか。もしかしたら林地、森林が3分の1より多いのではないかと思います。それ全部を入れて都市であると考えるのか。今の日本国で非常に難しいのは、国土交通省が所管している都市計画という言葉と同時に、農水省が所管している農振法や農業基本法とうまく調整されない。常に対立関係にあることをどうするか。都市計画法の第2条に、都市計画の基礎理念があります。そこでは、農業と調和を図ったまちづくりが基本理念と書いていますが、本当にそうなのだろうか。例えばイギリス風にいけば、都市農村計画(Town and Country Planning)といった方まで拡張して法律を直した方がいいのか。あるいは空間計画、市町村の地域全体の空間を、どのように使うかといった計画にした方がいいのか。別なかたちで、田園都市計画という名称でやった方がいいのか。そういった問題があります。私は実現できるか危ぶんでいますが、そこまで議論が遡っていくのではないかという期待もあります。
 もう一つ大きなことは、地球温暖化防止計画です。来年に洞爺湖サミットがありますから、特に北海道の方はもっと身近でしょうが、今年のハイリゲンダムサミットで安倍首相は、日本のような先進国はCO2を、長期的には50%削減する行動計画をとらねばならない、洞爺湖サミットで議論しましょうと述べました。京都議定書についても、2008年から2012年までに、1990年のCO2の排出量を6%削減するということで、いよいよその時期に入ったのですが、今のところ経産省と環境省の取りまとめを見ると、まだうまくいきそうにない。この数週間で、産業界にものすごい勢いでプレッシャーをかけ、こちらのセクターでは3,000万t減らすとか、2,000万t減らすというのは、ここ2週間くらいの新聞報道です。まだ1%くらい足りないということですが、私に言わせると、ようやく日本で政治的課題、本気になって取り組まねばならない課題に位置づけられた。専門家から見ると、1972年の頃から考えねばならないと言われ、30年経ってようやく日本で政治的課題として捉えられるようになりました。
 非常に象徴的なのが、先日発表になったノーベル平和賞を、アメリカのゴア前副大統領に与えることと、IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change;気候変動に関する政府間会議)、これは世界的科学者のグループが、地球にCO2がどんどん増えたらどうなるかを研究し続け、先日やっと第四次報告が出て、かなり具体的なデータによって各地で気候変動が起こることが示されました。それまでは、そうなるのではないか、いやそんなことにはならないという議論がされていたわけですが、今はもっと具体的になっています。北海道にプラスになっているのは、温暖化したために、北海道でおいしいお米がとれるようになってきた。もう少し温暖化が進めば、北海道米が新潟魚沼産を上回るかもしれない。それが本当にいいことなのかは、別問題であります。ここで言いたかったのは、IPCCはノーベル平和賞の選考側から見た時に、科学者が政治家を動かしたことに対する賞です。要するに今のブッシュ大統領が再選された時に明確に言ったのは、私たちはCOP3に入る気は全くない。アメリカの経済発展を考えれば、このCOP3の協定が非常に害になる。彼は就任演説でそれを言いました。前副大統領に平和賞を与えることは、非常に皮肉なことかもしれませんし、科学者が証明して政治家を動かし、世論を動かすところまで来た証であると、IPCCに賞を与えた。ICPPには日本のメンバーも何人かおります。
 もう一つは、化石燃料が枯渇する。皆さんはあまり意識していませんが、エネルギー関係の方では皆分かっていて、石油は今世紀末にはほとんどなくなると言われています。天然ガスは、生成のプロセスが解明されていない。石油と同じような化石燃料のストックで作られていれば、石油が枯渇すれば、天然ガスも数十年のタイムラグでなくなってしまいます。全く違う案として、地殻構造の摩擦によって、別なかたちで天然ガスが生成されているのではないかという説を唱える科学者もいて、地球にマントルがある限り、天然ガスが出るかもしれない。化石燃料、少なくとも石油は枯渇することには、大方の意見が一致しています。ですから、ガソリンが段々値上がりし、リッター145円くらい。原油はバレル80ドルを超えています。2年前は20ドル、4倍になっている。アメリカならすぐ反応するのですが、もっと石油、北海道の場合は灯油が、今の倍の値段だったらどうしますという問題が出てくるということです。
 今、だんだん国土交通省の中でも低炭素車だとか、CO2の50%削減だとか、廊下で満ち溢れるように、それに対する対策をどうするか議論をしているところです。
 そんな中でまちづくりの方は何を考えているかというと、今までCO2削減は単体、大きくは産業界、輸送部門、民政部分(業務、商業、家庭)で消費する量を決めていましたが、産業界もかなり削減しています。今から大きく削減するのは難しい。要するに、京都議定書の6%削減でさえ実現が難しいのに、それを50%まで削減するとなると何が起こるのか。運輸部門から出ているCO2は全体の20数%です。そのうちの約7割は都市の自動車です。それを減らさない限り、運輸部門は減らない。逆に、1990年のレベルから見ると、運輸部門は10%くらい伸びてしまっている。ですから、6%減にするには16%くらい減らさなければならない。それはできないので、産業部門で減らせという政策をとっています。業務、家庭も1990年より20%くらい伸びている。それを全部削減するのは難しいので、もうすこしゆっくりやろうということですが、そういう単体政策だけではできなくて、都市の構造まで変えなければ不可能であることから、自動車に依存しない集約型都市構造にするべきであると社会資本審議会の都市計画部会で答申しています。
 ただ私の本音は、国民にそれを強制できるのか。郊外に広がった都市を、今のマーケットメカニズムに任せておくと、郊外に出ていったが、段々人口が減ってきて、もっと近間の土地がさほど高くなく買えてしまう。郊外の住宅地を売って、真ん中のより便利なところに行こうという行動をとる人が増えてくる。あるいは、父母の代までは郊外に住むが、もっと便利な町中に同じぐらいの金額で土地が見つかれば、そこに住むということが起こってくれば、郊外の遠い戸建て住宅地は、段々人が減ってくる。なおかつそこの家・土地が売れないという状況が出てくる。一例を挙げると、盛岡に県の公社が売り出した高松団地があります。売った値段が3,000万円台で、土地は80坪。今は1,000万でも買い手がつかない。毎月100軒ずつ売り物が出るが、売れない。それを800万に下げると、若い人たちが買う。しかし、今まで住んでいる人が、ずっとローンを払ってきたことを考えると、800万で売るには忍びない。けれど、どんどん人は減る、という現象が色々なところで起こってくる。生活保護を受けたり、年金だけで生活するような方々が出られなくなって、ここに住まざるを得ないという状況が出てきてしまう。それを何とかするにはどうしたらいいか。そういう人たちに対して、道営住宅や市営住宅を提供し、住んでいた土地を市あるいは信託銀行が頂くが、その人が死ぬまでの生活費は出す。これはリバース モゲージといって、マーケットで作ろうとしています。こうした方法で、郊外の住宅地を整理していくことも考えていますし、今までの都市計画法の市街化調整区域という線引き制度を直して、逆線引きができるか。あるいは、新しい線引き制度を適用して、マンション型の人たちが住むゾーン、こちらは戸建てのゾーンといったことをやろうか。そんなことまで考えて、集約型の都市構造に変えていく。
 そのためには、何も住宅や土地だけでなく、あまり自動車で移動しないというなら、例えば岩見沢の人が千歳や札幌に行く際には、鉄道を利用する可能性が残されていますが、他のところに行くのに、自動車以外は考えられないと思います。代替手段としてのバスや鉄道など公共交通手段が、自動車の持っているサービスの質と同等のものを提供できなくなった。理由は、鉄道事業、バス事業となっているので、国としては事業と言っている限り独立採算が当然であることが原則になっている。答申では、まちの構造を変えるためには、事業者が採算が取れなくてもその事業をサポートし、都市としてトータルに維持できればいい、どこまで助成できるかという議論をしている最中です。交通経済学者には、そんなに補助をしてはだめだという意見があり、こちら側は都市経営がバランスすれば、交通セクターだけでバランスしなくてもいい、という議論もしています。この点は、これからどの方向に行くかというところです。
 先ほど述べたように、土地計画法の抜本見直しを国土交通省は言っています。それについてどこまでやるのか、成長型都市構造を見直せるのか、線引きはどうするか、といった課題があります。また、本日の第二セッションにもあるコミュニティという言葉ですが、コミュニティとは市町村なのか。それとももっと小さいのか。担い手は誰かという問題を考えた時、ヨーロッパの国を見ると、いわゆるコミュニティと称して面倒を見られるのは、約3,000〜4,000人くらいです。フランス、イングランド、ノルウェー、デンマーク、スウェーデンでコミューンという言葉を使う時は、そんな意味です。日本のように市町村ではない。上にバラー、ディストリクトという言葉がありますが、それらは一つの単位としてある。日本にはそういう単位がなくで、大合併で大きくしてしまった。それを一つの地域として考えた方がいいか、そうでないかを本日皆さんで議論して頂きたいと思います。
 我々が考える中で一番難しいのは、その担い手であります。今挙がってきているのはNPO法人やボランティアで、国レベルでそうした議論を行っています。しかし我々が抵抗しているのは、NPOやボランティアの人たちは、タダで何でもやってくれる、タダでやらなければならないという思いがある。それは世界的に稀有な例です。そんなばかなことがあるわけがないのです。他の国では、その人たちが生活できるような給料を払いながら、専従の人と、社会的奉仕をしたいという人をくっつけて、グループを作っている。ですから、全くタダの人が集まってもできません。コアになる人たちは、きちんと生活できるくらいの給料を貰えないと困る。例えば今日本では、団塊の世代の人たちが辞めて、やることがなくなったために地域に目覚め、地域の活動をする。ここにも60代の方がかなりおられるし、50代はその予備軍ですから、フルに貰った年金だけでは生活したくない。地域に入って何かやりたいという人たちも、年収で200〜300万貰えると、週のうち3日はまちづくりに奉仕するが、あとの4日は自分のために使いたい。そうすれば、とても質の高い生活ができる。年金だけではそういう生活はできません。それなりのお金が出るようなNPOなりボランティアのシステムができなければならない。
 しかし、日本の国はそうはなりません。明治以来の大蔵省、財務省の人たちは端的に言うと、そういうものは全て税金で取り上げます。我々が一番正しく、適正・平等にその資源を配分する能力を持っていますという考えです。ですからNPOへの寄付を減税するなどとんでもない。NPOへの寄付は、企業が儲けの中から出すのはいいが、経費として落とさせない。ですから、企業へ行って寄付をお願いして、企業が50万円寄付しても非課税にならない。企業からすれば、50万円の寄付は益金ですから、その上に50万円税金が乗ってしまう。ですから50万円くださいと言うことは、100万円くださいと言うのと同じです。そういう現実がありますから、もし損金になるのなら、企業も喜んで出したい。先日、富山のLRTで成功したのは、市長が赤字になったり、車両を更新した際の費用を積み立てるとき、市税を免税する制度をつくり条例を通した。そうすると、企業の方々が市町村に対して、100万円、200万円という細かいお金が2ヶ月で集まり、基金が作られました。税制度を上手く使って、損金扱いできるようにしたからです。
 そういう面で、建築基準法や都市計画法の抜本見直しと言いますが、日本は明治以来、どんどん人口が増える中で、色々な制度を作ってきました。単純に建築基準法、都市計画法だけを見直ししても、全体がうまくいくかどうか分からない。そうするとお役人は、無難なところでいこうとする。今まで都市計画法で、他の法律と境界を決めている中でだけ、見直しをする。これは、色々な省庁で作っている法律の特徴です。本当に抜本見直しをするとしたら、地方分権の委員会などもそうですが、今、法律で与えられている国の権能を地方に渡すことはかなりやりました。ただ、人も金も渡さない。人と金を渡さず、制度だけを任されたら、市町村が大変困ってしまう。今、地方税等の見直しを行っていますが、何とか国に残しておいて配分権だけは取ろうとしているわけです。そうしたことが、抜本見直しの裏でどのくらい動けるのかということが問題で、審議会で時々言っても役人から完全に無視されるのは、我々と税調の委員会とで合同委員会を開きたいということです。税制を直さないと、色々言っても全部直らない。我々の文句を聞いてほしいと言うのですが、役人から無駄なことは止めましょうと諌められてしまうのが、我々の立場です。
 北海道のまちづくりを考えた時に、我々からの印象を申し上げたいと思います。東京依存からの脱却は、全国の地方に言えることですし、日本の国の制度は一転集中、常に東京に来ないと物事が進まないような制度にしてあります。しかし、それでは国際的に勝てないというのが私の印象です。例えば、スイスとどこかの都市が交渉するのに、パリに行かなければできないと言われたら、フランスの色々な市町村が、「うちの隣ではないか。隣と話し合うのにパリに行くなんて」と怒るわけです。オランダの人がベルギーの人と話すのに、アムステルダムやブリュッセルへ行かないとできない、そんな馬鹿なことはありません。ヨーロッパの人たちは、都市ごとに自分たちが勝手にできるという権能を大事にしている。ところが日本の場合は、国も地方もまず東京に行かなければならない。それを、地域ごとに勝手にやっていいようにできないか、ということが一つです。私は特に北海道の場合、開拓史という歴史がありますが、何か困ったら東京が助けてくれるという感じになっていないか。東京に助けは求めない、自分たちでやろう、とはならない。どこに障害があるのか分析して頂き、それを達成する。こうしくれたら我々は自由にできるということを、明確に打ち出すことが必要ではないかと思います。それは逆に言えば、本当の意味の道州制にするための要件は何か、考えていただきたいと思っています。
 そうなってきた時に、我々から見ていると、北海道は製造業が非常に弱い。世界に進出した企業が、日本国内に回帰している面があり、北海道には質の良い労働力があり、新しいものに対応できそうな人が住んでいる、土地を確保しやすいということで、候補地の一つに挙げられます。今までは東京の押し付けパターンで、そうならないと魅力がないと思っているようなので、北海道の地域資源は何なのか、国際的に売れるようにするにはどうするかが、大きな問題であります。その中で自力をつけていかないと、まちづくりに至らないと思っています。我々が気にしているのは、ニセコのオーストラリアブームです。不動産やディベロッパーが、日本風にやったら失敗する。オーストラリアに人気があるのだから、オーストラリア風に別荘開発等をしなければおかしい。けれど、ニセコに行くとその町の人たちが、片言でも英語応対ができるようになってきたという情報を聞くと、やはりすごいなと思います。空間的に言うと、東京とは全く関係なくできている。そういう世界があるのだから、やろうと思えばできる。そういう意味で、北海道の地域資源は何か。
 高知の四万十川の例ですが、皆さんから見ても四万十川は自然の河川で、カヌーが浮いてとてもきれいだというブランドができたわけですが、地域の人たちは、そんな良い資源を持っていると全く思っていない。むしろ、東京やよその人が素晴らしいと言って宣伝しているから、地元の人があわてていますが、その資源の使い方をもう少し考えないと、従来通りの観光地化をするのがいいとは限らない。我々も北海道をイメージすると、人工環境ではなく自然環境です。農地、森林も含めた自然環境が素晴らしいということを、どのように皆に見せ、どのように資源として自分たちの財産にするかを、北海道のまちづくりで考えなければならないと思います。
 少し中途半端になりましたが、次のセッションへ問題を投げかけ、基調講演を終わらせていただきます。ご清聴有り難うございました。


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