パネルディスカッション

 ★話題提供「地域の個性をいかす〜赤煉瓦倉庫群の再生をとおして〜」

金森商船株式会社代表取締役社長  渡 邊 兼 一

 ★話題提供「市民活動を踏まえた協働時代のあり方」

スプリングボードユニティ21代表  折 谷 久美子

 ★話題提供「街が動く〜思いの共有と地域再生の戦略〜」

まちづくりコーディネーター  吉 岡 宏 高

 ★話題提供「都市経営の時代〜地方都市の再生の処方箋〜」

日本政策投資銀行北海道支店長  長 岡 久 人

 ★話題提供「〈集客〉〈交流〉を旨としたまちづくり」

北海道大学大学院国際広報メディア研究科長  筑 和 正 格

 ◆ コーディネーター 北海道都市学会理事

札幌国際大学短期大学部助教授  市 岡 浩 子

 ▼ コメンテーター 函館工業高等専門学校

教授  韮 澤 憲 吉

 ▼ コメンテーター 大阪大学大学院工学研究科

教授  鳴 海 邦 碩


司 会
 5名のパネリストの皆さんによるパネルディスカッションに入ります。
 まず、パネリストの皆さんをご紹介いたします。多くの市民や観光客で賑わい、函館の観光スポットとしてお馴染みの赤煉瓦倉庫群を再生した金森商船株式会社代表取締役社長 渡邊 兼一様です。次に、ふれあい縄文フェスティバル実行委員会事務局長や今年、緑の島で開催したドライブインシアター実行委員会委員長など、市民活動団体スプリングボードユニティ21代表をされておられる折谷久美子様です。続きまして、たくぎん総合研究所主任研究員からまちづくりコーディネーターとして独立され、現在、大学の非常勤講師や道内各地の自治体職員研修の講師として、幅広い活動をされている吉岡宏高様です。次に、日本政策投資銀行北海道支店長の長岡久人様です。長岡様は、本業のほかに札幌学院大学非常勤講師、地域アドバイザーや民活アドバイザーとしても活躍されております。そして、北海道大学大学院国際広報メディア研究科長 筑和正格様です。筑和様は都市文化論がご専門で、北海道都市学会、情報文化学会、日本独文学会に所属されています。
 次にコメンテーターの方々をご紹介します。お一人目は、函館工業高等専門学校教授で、函館市都市景観審議会や函館市景観アドバイザーなど委員を歴任されている韮澤憲吉様です。もうお一方は、午前の部で基調講演をしていただきました大阪大学大学院工学研究科教授 鳴海邦碩様です。そして最後は、このパネルディスカッションのコーディネーターを務めていただく、札幌国際大学短期大学部助教授で北海道都市学会理事 市岡浩子様です。

市岡(コーディネータ−)
 それではこれからパネルディスカッションに入ります。これから5人のパネリストの方に、それぞれの活動の紹介をお願いします。最初に渡邊さん、よろしくお願い致します。

「地域の個性をいかす〜赤煉瓦倉庫群の再生をとおして〜」

金森商船株式会社代表取締役  渡 邊 兼 一

 私どもの会社は、最初の事業が開業したのが明治2年。その後、様々な事業を興し、明治20年には、函館で最初の営業倉庫として「金森倉庫」を始めました。この頃は海運業が盛んな時期で、それに比例して預かり荷物がかなり多く倉庫が不足したため、次々と近隣の土地を確保し、倉庫を増築していきました。函館は浜風が非常に強く、大火が何度もありました。当時の倉庫は同様の煉瓦造りでしたが、明治40年の大火によって、たぶん屋根の部分から火が入り、焼失したと思われます。明治42年から43年にかけて建て替えられ、それが今現在残っている倉庫です。
 その当時の教訓を生かしてか、現在の倉庫は、野地板の上に煉瓦を1枚敷き、その上に土を30cmほど載せ、瓦を葺いております。ですから非常に屋根が重く、倉の中には太い柱が4本くらいずつ建っています。重い屋根を支えるためには、それだけ太い柱が必要だったのでしょう。ちなみに、梁、柱、ノジ板、全てヒノキでできております。函館ビヤホールは、まだ当時のままのヒノキの板を敷いてあります。床板もその下に煉瓦を1枚敷き、床板を貼っています。ですから、夏涼しく、冬温かく、年間を通して温度差が少ないので、荷物を預かるには最適な倉庫だったと思われます。
 再生の経緯、動機ですが、昭和50年代の半ばから後半にかけ、函館の基幹産業の一つであった北洋漁業は、ロシアの200海里漁獲規制や、オイルショックの影響による造船業の衰退など、壊滅的な打撃を受けていました。そのうえ、港湾の機能が函館北東部に移動したことにより、私どもの倉庫がある西部地区に、かつてのような盛況が再び訪れる確率は極めて少ないと判断し、会社に余力があるうちに、新規の事業を考えようとしたわけです。
 当社の倉庫は、映画「居酒屋兆治」をはじめ、テレビ、CM等でよく使われましたが、中にお客様の大事な財産をお預かりしているので、荷物の出し入れ以外はほとんど扉を開けません。市民の方でもほとんど中を見たことはない。そうであればこの機会に、太い柱、高い天井、梁等を、できるだけそのまま利用し、中を見ていただきながら何か事業をやろうと考えておりました。
 その矢先、ちょうど昭和63年、世紀の大事業・青函トンネルの開通さらに青函博の開催と、日本中の目が青函地区に向けられたことで、函館にとっては、何十年に一度の好機が訪れました。私どももこのチャンスを是非捉えようと、63年4月29日、ゴールデンウイーク前に赤煉瓦倉庫の5棟、約2,300坪の25%を利用し、ビヤホール、店舗群、多目的ホールなどに転用しました。これらを総称して「函館ヒストリープラザ」をオープンさせました。青函トンネルなどの好景気を受け、当初の予想をはるかに超える人気を博し、非常に多くの方に来ていただきました。
当社で持っている旧金森船具店はかなり傷んでおり、始めは取り壊そうかと思いましたが、非常にいい建物だったので大幅に改修し、内部も改装しました。これをフランス・バカラ社のクリスタルガラスのコレクション、36点の復刻品の常設展示場とし、平成元年、「金森美術館」をオープンいたしました。ちなみに、これだけの復刻品を一堂に展示しているのは、フランスのパリと金森美術館だけです。お時間があれば、是非ご覧になってください。
 以上が第1期の計画でした。さらに平成6年4月に、ヒストリープラザ内の店舗群のうち10店舗を移設し、店舗総数を25店とし、隣接の倉庫2棟、約800坪を利用して「金森洋物館」をオープンしました。店舗移設で空いたところに、「レストラン金森亭」をオープンし、第2期計画を終了しました。
 これらの事業をするに当たり、当社は長年、函館市民の皆様にお世話になっておりますので、これだけの大きな施設ですから、元々商売をされている方との競合はできるだけ避けたい。そう考え、地元の商店の方々と一緒に、相乗効果を出すことを目的としました。ですから、物販はお土産品、特に海産物は絶対取り扱わないよう、テナントにも指導しております。
 昨年9月、私どもの隣、BAYはこだての本社・日本郵船さんから私に直接連絡があり、実はBAYはこだてを撤退したい。引き継いでもらえないかというお話でした。突然のことですが、せっかく私どもと同時期に一緒に開業していたBAYさんなので、他人の手に渡り、あの施設をまったく違うものにされるよりはと、大きな買い物でしたが、私どもが譲り受けました。今年4月25日に、総延面積5,400坪になり、店舗数を41店舗とし、総称を「函館ヒストリープラザ」から「金森赤煉瓦倉庫」と変え、リニューアルオープンしました。
 青函博の年のオープン以来、今年15周年を迎えました当施設は、市民の方々に愛される施設でありたいと願い、また大きく変化しました。ここまで成し遂げられましたのも、多くの函館市民の方々並びに関係各位の皆様のご支援・ご指導の賜と、深く感謝いたしております。また、函館市におかれましては、施設周辺の道路を石畳にしてくださったり、街路灯などの整備による景観の充実化によるお力添えをいただき、近辺は散策にも非常に適した場所になったと思います。
 初代の、市民の方々に喜ばれ、愛され、評価してもらえる施設という理念を忘れることなく、観光客はもとより、何よりも函館市民の方々に愛される「金森赤煉瓦倉庫」でありたいと願いながら、私どもの例が函館のまちの再生に、少しでも参考になれば幸いと思います。函館にはまだ貴重な財産があります。それらに新たな魅力を加え、生かし、益々魅力あるまちに再生していただければと思い、今日ここに発表させていただきました。有り難うございました。

市岡(コーディネータ−)
 渡邊社長、どうも有り難うございました。赤煉瓦倉庫の再生というのは、全国的にもサクセスストーリーとして非常に有名です。私には、市民に愛される施設という言葉が心に響きました。
 次に、スプリングボードユニティ21代表 折谷さんから活動内容をご説明いただきます。


「市民活動を踏まえた協働時代のあり方」

スプリングボードユニティ21代表  折 谷 久美子

 本日は、専門家の皆様を前に大変緊張しておりますが、どうぞよろしくお願いします。
 当団体の名称の由来ですが、スプリングボードとは跳び箱の跳躍板という意味で、飛躍や発展のきっかけとなるものという意味です。ユニティとは、統一、まとまり、合同という意味です。1999年に結成したので、21世紀へ向けてみんなで力を合わせ、心を一つにして楽しみながらはばたいていこう、という思いを込め名づけました。女性や市民が気軽にまちづくりに参加できるように、フリーでフレキシブルをコンセプトの基本としています。
 活動方針は、自分たちが住んでいる地域の特性や資源を見極め、様々な角度から多様性を見つけ活かします。そのためには、ほかのまちづくり団体やNPOなどと連携を深め、点が1本の線になるように、人的ネットワークを確立します。目標が決まったら、そのための情報は共有し、自分たちで地域をつくっていくのだという強い意志が必要です。そして住民参加により、空港、港湾、駅、道路などハードだけでなく、ソフト面からも充実させます。
 それでは今まで行ってまいりましたイベントの中から、主な活動をパワーポイントにより紹介させていただきます。私たちスプリングボードユニティ21だけでは夢で終わってしまうことも、いろいろな団体とのコラボレーションにより、実行委員会という形で実現いたしました。こちらは2001年函館市千代台陸上競技場で開催されましたスポーツフェスティバルです。この年のツールド北海道は、道南をステージに函館からのスタートでした。また翌年は、DPI障害者国際大会札幌会議の開催もありましたので、自転車を中心としたスポーツで、障害のある人もない人も一緒に手を取り合い、楽しもうというプレ事業として実行委員会で企画いたしました。スタッフ350人、参加者1,800人という大規模なイベントとなりましたが、市の温かい支援により、陸上競技場で初めて実現いたしました。当日はお忙しい中、ゲストとして橋本聖子さんも来てくださり、○×クイズの司会を担当して下さいました。本当は聖子さんに、自転車で一周走ってもらいたかったのですが、ちょっとそれは無理でした。
 こちらは昨年5月、函館港・港町の埠頭が水深14mになり、豪華客船「クリスタルハーモニー」が寄港した際に行った送迎イベントです。「また来てハーモニー」実行委員会で行いました。5万t級の船が着くのは初めてでしたので、歓迎の意味を込めて行いました。乗客は外国の方なので、言葉ではなく心で通じるものをと、函館巴太鼓と、函館名物いか踊りを踊りました。横断幕も手作りで「See you again have a good trip」(また来てね、よいご旅行を)とおもてなしの心、ホスピタリティを表現いたしました。後日、船に乗っていたアーサー・メルビル博士から、井上市長宛てに感激のお手紙と、船から写してくださった写真が届きました。見送った私たちも、見送られた方々も心に残った、感動のイベントとなりました。当日は2,000人の市民が集まりました。
 続きまして、こちらは昨年6月19日、青森県大間町から戸井町の17.5q、津軽海峡を縄文の木舟で渡った実証事業の関連イベントとして、戸井町オートキャンプ場で行われました。縄文時代は1万年もの間、大きな争い事もなく活発な交流を行い、豊かな社会を築いてきましたので、その縄文の知恵を学ぼうと土器を作ったり、火起こしの体験などを行いました。早来町のスマイルフォービートのコンサートも行われました。保育園の子供たちが手作りの縄文服を着て、音楽に合わせて踊ってくれました。スマイルフォービートの皆さんは、目が見えず、耳が聞こえない重複障害の方ですが、自分たちの音楽で子供たちが喜び楽しんでいることにとても感激しておられました。縄文学は未来学と、三つのキーワードから内容を企画し、地元との人との交流も深まりました。
 こちらは、今年の1月に行われた「花と緑が育むあしたづくり」のシンポジウムです。NHK趣味の園芸のキャスター 須磨苛津江さんをお招きし、基調講演とパネルディスカッションを行いました。1月の北海道、お花のない時期、どのような会場づくりをしようかとみんなで話し合いました。お金はないし、お花は高いしと考えた結果、お花が好きな人は、冬でも家の中で育てているので、当日、ご自慢のお花を会場に持って来てはどうかと募集いたしました。外は雪が降っていて寒い中、会場は春のようにお花一杯になり、温かい雰囲気となりました。お花を持参された方は、終了後、須磨さんと一緒にお花の前で記念写真を撮ったり、園芸相談をしたり、それぞれ楽しんでおりました。何よりも、お花を持参された方は途中で帰れません。最後まで400人の満員御礼で終了いたしました。このリーフレットも、雪の上にお花を置いてデジカメで撮影した手作りです。
 こちらは先月、旧青函連絡船摩周丸で行われた「シンポジウムとジャズとビールの夕べ」です。実行委員会主催で行われました。函館市の施設となり、4月からリニューアルした摩周丸を、もっと市民に愛され親しまれる施設になるようにと行われました。建築基準法や船舶安全法など、いろいろ縛りのある中で議論されておりましたが、あれもダメこれもダメでは活用にならない。まずはやってみようというワーキンググループの中でお話が進み、実現いたしました。当日のシンポジウムは、「海と市民の生活」をテーマに、活発な議論が展開されました。その後、夕陽を見ながらジャズを聴きました。ただ、9月7日はとても寒い日で、ロケーションは最高でしたが、震えながらビールを飲みましたので、来年はもっと暑い日にできたらと思っております。
 以上、今まで紹介した事業は、北海道や函館市から財政的支援や、人的支援を受け、まさに官と民の協働で行ってきたものであります。今までの活動から、官民協働で力を合わせると、夢で終わっていたことも実現できます。そして主役はあくまでも市民です。既存ストックを有効活用し、地域の個性を活かしていきます。長期に亘って活動し、みんなで函館らしいまちづくりを育んでいきます。そうすることにより、教育・文化・福祉・健康・観光など様々な分野の活性化につながると思いますし、住んでいる人も生き生きとしてくると思います。そのためには、人と人との心が通じ合う地域づくりが何より大切であると思います。以上、話題提供とさせていただきました。有り難うございました。

市岡(コーディネータ−)
 折谷さん、有り難うございました。最初に、自分たちで地域をつくるという強い意志という言葉がありました。しかし意志を持っていても、なかなか実現することは難しいと思います。驚くばかりのエネルギッシュなパワーで、次々と事業をされてきた経緯を伺いました。お話の中に、協働・コラボレーション・ホスピタリティという言葉も出て来て、今後のディスカッションを進める上で、キーワードになっていくと感じました。
 では次のパネリスト 吉岡さんは、道内各地でまちづくりコーディネーターとしてご活躍ですが、他のまちの事例等を含めて活動をご紹介ください。


「街が動く 〜思いの共有と地域再生の戦略〜」

まちづくりコーディネーター  吉 岡 宏 高

 当会議のテーマ「都市の再生」は、私にとって昔から考えてきているテーマです。私は、炭鉱のあった三笠市の出身で、父も炭鉱マンでした。私が生まれたのは1963年、石炭産業が最もピークを迎えた頃ですが、それ以後、坂道を転げ落ちるように、あれだけ優良な花形と言われた産業が、わずか40年で完全に衰退し、まちも崩壊してしまった。そういうことを、常に育つ過程で眺めてきて、再生の必要性と大変さを骨身にしみて感じてきました。
 今日は室蘭のお話をしますが、いつもは様々な部分で、市民主体のまちづくりに自ら加わったり、お手伝いをしたりしています。先ほど、鳴海先生の講演の中で、いろいろなキーワードを示していただきましたが、私は札幌で都市交通のLRT(新型路面電車)を自分の市民活動として行っています。また、出身地・三笠では、炭鉱遺産という古いものをもう一度見直しています。
 もう一つは、小さい地域ではなかなか自分たちでやろうと思っても、できない部分があります。例えば、思いはあるがそれを束ねて皆に表現するということができない。あるいは、地元の人だけでは色々なしがらみがあって、まとまる話もまとまらない。そういうケースでは、たくぎん総合研究所というシンクタンクにいた経験を生かし、中に身を置きながら、半ば外の視点でアドバイスする。今回の室蘭もそうですし、道東・浜中町ではエコツーリズム、エコミュージアムというかたちで、北海道にとって大切な自然をどう継承していくか、活動を行っています。いずれも、自分のしてきたことは、鳴海先生の言われたことと違わないと確認し、意を強くしています。
 さて室蘭の事例ですが、これは私がたくぎん総研を辞めた頃に、地元の人たちと一緒にやってきた事例です。室蘭の状況をみてみると、半島があって、商店街が会社別に分かれています。ご紹介する輪西は、新日鉄の門前町です。その他に日本製鋼所、日石など会社ごとに集落があり、最盛期は人口18万人でしたが、現在は10万人そこそこです。
 輪西地区の人口推移ですが、高度成長期の最ピーク時には人口2万人、新日鉄従業員だけで1万人近くいました。それが現時点では、人口4,000人、5分の1まで落ちています。新日鉄の従業員は現在約700人、10分の1近くなっています。ここの商店街は、人口18万人のときに室蘭第2の商店街で、商圏人口としては5万人でしたが、現在は約5,000人、10分の1の規模です。商業統計の推移をみても、商店数、売場面積、年間売買額ともにどんどん低下し、すさまじい状況で転落していった地区です。
 輪西地区はまちの北側に室蘭新道があり、国道とJRがあります。南側に未整備の道道がありますが、少し高地になっており、すり鉢状にまちが展開しています。真中を南北に走る7条通りだけが整備されており、あとの都市計画道路は30年間全く手がつけられていない。商店街は1.2qあり、最盛期に合わせたサイズです。ちょうど道路の北側の辺りに新日鉄の工場がありますが、そこから1万人の従業員がどっとこのまちに繰り出し、それを1.2qの商店街で受け止めてきました。
 今回問題とするのは、新日鉄がまちのど真中に居座っている部分です。高度成長期には若い従業員がたくさんいましたから、専属の結婚式場、ボウリング場、アパートなどがありました。しかし、今は施設は営業はやめ、誰も住んでおらず、まちの真中が暗くなっています。ここをどうするかが、商店街とこの地区の一番の課題です。高齢化率も30%を超えており、とても坂の多いまちで、冬などは大変です。商店街の方と話し合った際、お年寄りは冬は命がけで買い物に行く。生き死にの問題だと言われました。
 この1.2qの商店街は、“シャッター通り”と言われ、開いている店を数えた方が早い状態です。この事例を紹介する理由は、頑張ればここでも何とかなるということを、皆さんにご紹介したかったからです。商圏人口は10分の1、人口は5分の1、普通考えると、もうどうしようもない状況です。でも、ちょっと見方を変えると、オイルショックを境に新規投資が全くなされなかったまちですから、昭和40年代、私が子供の頃見た商店のファサードなどが残っています。また、対面販売や、もっきり(いわゆる立ち飲み)がまだ生きています。札幌ではジャスコなどが、あえてこういう街並みを造っていますが、何もそんなことをする必要がありません。
 しかし、商業としては機能を失っています。そのとき、唯一手がかりになるのは、真中にある7条通りです。これは20年ほど前に地元の人が頑張り、ここだけは何とかグリーンモールに整備しました。また、まちの中央を占めている新日鉄の関連施設で、1.2haあります。1997年からワークショップをしながら、どうしようか話し合いました。このときは行政も非常に冷たく、できるわけがないと、ほとんど支援をしてくれませんでした。そこで商業者が中心となり、自分たちでお金を集め、私がたくぎん総研を辞めた頃から一緒に計画をつくってきました。中心市街地活性化法より少し先駆でしたが、内容は活性化法の要件を全て満たしている計画づくりになりました。
 鳴海先生のお話にあったように、ああしたい、こうしたいというアイディアは出てきます。しかし、この地区はあと少しで完全に壊れてしまう。私の予想は、あと5年で何とかしないもう終わり、その5年で何をするか。できることは限られるので、せいぜい三つほどに絞りました。当時の地区人口は約5,000人でしたが、タウンウオッチングを含めて毎回50人ほど、延べでは約500人、地区人口の10%が計画づくりに何らかのかたちで関わりました。
 非常にノリのいい商業者が中心だったので、自分から出かけていったりしながら、輪を広げていきました。実際に計画を遂行する際、いろいろな人が「この計画は自分がつくったんだ」と言ってくれます。自分たちが知らないところで、誰もが“寄ってたかって”応援してくれました。市議会議員だったり、全く会ったことのないおばさんが、自分たちの計画だと応援してくれる体制ができました。
 コンセプトとしては、今までは労働者のまちだったが、商業観光、まち全体が博物館という観点でやっていこう。その代わり、「暮らしの広場」として、生活に役立つことをもう一度組み直そう。そのためには、やはり密集した市街地の中では難しいので、新日鉄に土地を開放してもらい、自分たちで造ろうということでした。
 写真の左側が市民会館、右側がショッピングセンターです。相当コストを抑え、市民会館も民間が建て、市に売りました。本当は貸したかったのですが、行政は補助金が貰えず起債が受けられないので売ることになりました。古い施設をスクラップし、自分たちが暮らしやすいものをコンパクトにつくっていきました。商業者もいろいろ工夫し、ショッピングセンターのキーテナントも、とてもスーパーマーケットと思えないほど皆が頑張ってくれました。
 もう一つ自慢なのが、子育て支援施設です。これも“寄ってたかって”応援の一つです。商業者が場所を提供するが、運営は地元で能力のある人に任せ、学生たちも手伝ってくれます。先ほどの市民会館も、運営は商業者を中心とした市民が担っており、NPO化を計画しています。
 まちが動くまではすごく大変です。動き始めると、コンサルタント、建設業者、役所も手伝ってくれます。動くまでは誰がやるのか。ここでは外部の私と、内部のメンバーで頑張りましたが、動くまではなかなかうまくゆかず、計画はできても進まない状況になってしまいます。この点については、後ほどお話しする機会があると思います。

市岡(コーディネータ−)
吉岡さん、有り難うございました。数多くの経験の中から、室蘭の事例を挙げて具体的にご説明いただきました。人の思いがまちの体制を動かしていくというお話で、外から入られてアドバイザーを務められ、ご苦労もあったと思います。その点、後ほど伺いたいと思います。
 では次に、長岡さんからお話をいただきます。


   都市経営の時代 〜地方都市の再生の処方箋〜」

日本政策投資銀行北海道支店長  長 岡 久 人

 私は皆様とはちょっと違う組織の、違う人種かと思いますので、イントロダクションとして、どんな仕事をし、どんなことを考え、なぜここにいるのかお話したいと思います。
 私が給料を貰っているのは日本政策投資銀行と、ちょっといかめしい会社ですが、旧北東公庫の名称の方が分かりやすいかと思います。4年ほど前に、行政改革で日本開発銀行と一緒になり、今の銀行になっております。北海道地区の社会資本的なものへ融資を行っています。、社会資本そのものは例えば道路、港湾、公民館などは中央政府:公的セクターが行いますが、といって民間企業ではできない中間領域があります。インフラ的なもの、あるいはインフラ的に近いものについて、融資・出資します。北海道全体には約7,500億円の残高を持っております。
 私は関係者から“奇人変人”と呼ばれておりまして、部下からは“悪代官”と言われています。何でか。私は10年前札幌にいましたが、再び昨年6月末にこちらに来ました。皆さんは気づいていませんが、函館も含むこの北海道経済、この地域にのしかかった不良債権の重圧はすごいものがあり、他地域に比べても非常に重い債権です。分かりやすく言えば借金です。個人もそうですし、企業、公的機関もそうです。道など最たるものですが、これを取り除かなければ、本日話題になっている都市再生や企業の活性化、個人が生き生きとして自分を全うすることはできない、という認識を持ちました。
 従って、短期間に重い荷物を処理するしかない。そうは言っても誰かに押し付けるわけにゆかないので、銀行が泣くわけです。民間金融機関と共同で、不良債権の処理は1年ちょっとでほぼ完了しました。市中銀行は少し遅れるようですが、年度内にはほぼ完了するでしょう。そうすると、北海道そのものはだいぶ軽くなるので、都市再生の具体的な戦術に入っていけると思っております。非常に強引に指導しているものですから、道庁、市役所など地方公共団体、取引先の企業などから、そういうやり方を普通はしない。だから、あなたは奇人変人だと言われているわけです。
 部下からは、「殿、そんなことをすると皆から嫌われますよ。悪代官はやめてください。」と言われています。しかし、短期間に重い荷物を片付けなければ、地域づくりや都市の再生は絵で終わってしまいます。ですから、我々の仕事はミクロではなく、マクロの部分から行っており、先述のとおり、我々が関わるインフラについての処理はだいたい終わりました。市中銀行と共同の分は、北洋銀行、道銀と共同で、今年度でだいたい終わります。むしろこれからは、地方政府が抱えた重荷、つまり市役所やまち、村が背負っている不良債権の処理が課題になってきます。これにも半分は、我々が関わっていきたいと思っています。
 しかしながら、民間企業の不良債権処理は終わりますので、函館をはじめ、本日ご参加の皆様の市町村も、まさに、これからスプリングボードに乗って発展していく、ということだろうと思います。そのスプリングボードに立ち、エイヤッと渡っていくとき、本日私はマクロの話、医者でいえば基礎医学の話をしたいと思っています。少し眠くなるかもしれませんが、この基礎医学を忘れ、目先だけで国の税金を取ってきて、役人をだまくらかしたり、エエカゲンな絵を描いて起債をするのではだめです。結局それは2・3年の役人のルーティンなり、地域のリーダーが交代するときだけ光って、長続きしない。今までのお話にもあったように、息長く、地道にやっていくことが重要です。これはまさに基礎医学、強い意志がなければ継続はできない。これに関してヒントになる話を、申し上げたいと思います。
 都市経営あるいはまちづくりについて、経営的・経営管理的なセンスが今後必要になってくると思います。経営の要諦は、Plan・Do・Seeであります。Planとは、ビジョン、かくありたい、こうしたいというプランをつくることです。従来はお上だけがつくり、「これに従ってやれ」というのが昔の時代でした。しかし今は、皆さんが協働でイコールパートナーとして、行政もNPOも、企業も個人も、プランをつくっていく時代に入っていくわけです。
 Do、つまりそのプランを元にしてやるということです。室蘭の例は、まさにDoです。しかしPlan・Doでだいたい終わってしまい、Seeがないことが多い。つまり、やった結果を評価する。計画どおりになっているか、あるいは何が間違いだったか、Seeが終われば、またDoに入っていく。Plan・Do・Seeという、経営管理循環システムを実践していかなければならない。事後評価であるSeeをきちんと行うことが必要です。これは行政だけでなく、まちづくりに関わる我々がこうした視点を持ち、相互に批判していくことが重要であります。行政だけが、あるいは特定の企業が悪いのではなく、相互に批判しながらSeeを行い、またPlanとDoにつなげていくことが大切です。
 私もプロジェクトメーカー、開発の仕事が長かったのですが、やはりまちづくりへの強い意志を持った人がいなければ、Plan・Do・Seeを貫徹できないと、経験的に思っています。光っている地域には、必ず強い意志を持った人がおります。必ずしも行政の人、あるいは大学の先生だけでなく、地の塩のような人が息長くPlan・Do・Seeを保持しながら活動しています。そういう強い意志を我々自身も持つ、あるいは持っている方々を手伝っていくことが重要だと思っています。
 ここで1点申し上げたいのは、我々もそうですが、上司や関係者をだます際に、いろいろな予測を使います。これは信用しないほうがいい。特に大仕掛けにすればするほど、皆だまされます。こうすれば右肩上がりになります、あるいは下がりになります。あるいはモデルを示したり、権威ある先生が言われたなど、こういうのは嘘です。何を言いたいかといえば、権威やモデリングはあくまでも参考資料であり、ともに集う者が自分の意志で考えていく。予測や権威の話というのは、あくまでもサブであるという認識が、まちづくりや再生のとき重要になると思います。
 特に、地域づくり、まちづくりをする場合、機能的に特に留意しなければならない点が5点ほどあります。1点目は生産戦略です。従来、まちづくり、地域づくりの議論がなされるとき、都市計画の権威の先生方や、行政の都市開発課とか都市計画部、あるいは港湾部、河川課などの人たちが前面に出てきますが、“飯の種”がなければ砂上の楼閣で、つくったものも永続しません。産業という“飯の種”がなければ、絵に描いた餅になる。産業政策、“飯の種”になるものとまちづくりは一体不可欠という認識を、腹の底にドシンと持たなければならない。でないと、きれいな建物と道路、美しい街並みができても、長続きはしません。北海道でもそういうまちで、崩壊してなくなっているものがあり、今後も出てくるでしょう。産業という“飯の種”がなければ、砂上の楼閣であり、生産戦略を構築すべきです。行政は縦割りになりがちで、どうしてもバラバラになり、税金の無駄遣いと戦略・戦術の拡散が危惧されます。商工関係者と一体で行っていかなければなりません。
 2点目は、マーケティング的な発想です。ねばならない、こうしたい、ああしたいというのは一杯出てきます。選挙になると市長候補など、皆がいろいろ出してきますが、実は市民ニーズではありません。市民ニーズあるいは地域ニーズを、お互いきちんと認識していく必要がある。ニーズ調査も必要ですが、これにもインチキがあり、コンサルはああしたい、こうしたいとよく提案します。しかし価格の問題、こういう料金で電車に乗りますか、この価格だったら施設を利用しますか、というマーケット調査をしないと、本当の調査にはなりません。パラメーターでは価格をおいて調査をしないので、間違ってしまいます。子供のおもちゃのように、何でもかんでも欲しいのですが、そうはいかない。価格があって、どの程度のものが欲しいかと調査しなければ、地域づくりのニーズが明確化しない。商ベースでは当然の話で、高いものは買わない。マーケティング的発想が、まちづくり、都市再生に必要になってくると考えています。
 3点目は、先ほどから諸先生方が言われているとおりです。まちづくりは、最終的には人です。上にお上がいて、2番目がコンサル、3番目に市民がいて「へへぇ!」と聞くようではダメです。皆がイコールパートナーで、一緒につくっていく。私も30年ほどこの仕事をしていますが、地域・地域にまちづくり、再生のできる人がいます。名馬がたくさんいるのに、それを見つける伯楽がいません。伯楽は、地域の中からは出てこないのではと思います。やはり外から連れていくしかない。理由は、地域に埋没していると、互いが名馬であることが見えない。名馬を磨き、いい馬にする伯楽は、外から連れて来る必要があるでしょう。
 4点目は財務戦略についてです。私の親会社である国をはじめ、企業も公的機関も、金がない金がないと言いますが、知恵を出せばいくらでもできます。私どもはいろいろな新しい社会資本整備、地域づくりの手法を開発しています。直近では、PFIの手法があります。これは地方政府の負荷を減らすため、民活を導入するという方法で、昨今新聞でも紹介されました。札幌市の葬儀場は200億ほどのプロジェクトですが、PFI方式を導入し我々が融資をしました。地方政府の負担は相対的に非常に低く、その葬儀場は最終的に札幌市のものになります。そういう金融手法もあります。金がなくても、再生なりまちづくりはできるとお考えください。
 5点目は、まちづくり、地域づくりには研究開発投資が必要であります。人づくりに投資をしない地域は、没落していきます。吉岡先生から室蘭のお話がありましたが、私も10年前、室蘭でもう少しマクロな支援を行いました。取引先の新日鉄や室蘭市の方々と大分議論しましたが、実はそういう発想がなかった。それではいけないと私の下に室蘭市から出向させ、ビシビシ鍛えて、その人は今、室蘭市の戦略的な要員になり将来を嘱望されています。人づくりをすることが、地域再生、地域づくりの研究開発投資であります。技術論はたくさんありますが、覚える必要はありません。やはり広い視野、歴史的な常識を、戦略要員になる者が共同で勉強していくことだと思います。
 私は、昔からいろいろな出向者を受け入れておりますが、技術的な話はいつもしません。部下にも言いません。バイブルやコーラン、仏教の法典を読めと言っています。こんなものを勉強するために会社に入ったんじゃないとか、親元の社長や市長から言われていない、と言ってきます。しかし、常識がない者にとって、技術は刃物になってしまいます。つまり、常識があって初めて技術が使えるわけです。それで、まず第一に常識を涵養させる指導を行っています。企業同様、研究開発投資は人づくりであり、それを忘れた地域・まちは没落します。道内でも、企業の税金で踊り狂ったまちは、没落してきています。これは海外、日本全体でも同様です。是非、人づくりである研究開発投資を行い、イコールパートナーとして相互に批判しながらつくっていくことは、今後の都市再生に対する最大のポイントだと申し上げ、話を終わります。有り難うございました。

市岡(コーディネータ−)
 都市経営の視点からお話をいただきました。基礎医学に例えて、息長く、長期的な視点で都市を再生させるには、様々な戦略が必要であるというお話をいただきました。非常に分かり易く、パワフルな内容だったと思います。有り難うございました。
 それでは次に、筑和先生からお話をいただきます。


〈集客〉と〈交流〉を旨としたまちづくり」

北海道大学大学院国際広報メディア研究科長  筑 和 正 格

 私は大学院の国際広報メディア研究科というところで、都市文化論という授業科目を担当しております。その関係上、社会の第一線で活躍しておられる4名のパネリストの方々とは、若干違った趣の話にならざるを得ません。都市文化論で考えることは、当然、都市文化です。その際に、あらゆる都市論の根底にある問いかけは、「都市とは何か」であります。これは究極の問いで、一義的で明瞭な定義は必ずしも下せない。むしろ、下手に下さずにおくことが、正しい態度ではないかと思います。
 そういうわけで都市の定義はさておき、文化はどう捉えるか。文化も何らかの定義や捉え方を決めておかないと、先へ進みません。普通、文化というと、人間の活動の高尚な部分、芸術や文学、音楽、演劇などを指す見方があります。当然これも、文化に違いありませんが、私が研究している都市文化論はもう少し広く考え、人間の集団の生きることの営み、生の営みや行動様式の複合的な総体を文化として捉えます。少々固い言い方になりましたが、要するに、人間の生活文化を考えることが基本にあります。都市文化とは、都市における人々の生活文化ですから、人々がどんな意識を持ち、どんな生き方をしているか。そのことは同時に、都市にいる人々の価値観や行動様式を探ることになります。
 今、都市やまちにとって最大の関心事は何かと言えば、やはり本日のテーマであるまちづくりでありましょう。ですから私の行う都市文化論も、まちづくりの検討を考えています。これを通じて、都市文化あるいは都市とは何かという問題へ、アプローチしていきたいと考えています。
 「〈集客〉と〈交流〉を考えたまちづくり」ですが、これは本日の基調講演にもあった“人が集まる”ということです。21世紀のまちづくりのポイントは、この点にあるのではないかと考えています。もちろん、定住をないがしろにするものではないし、定住人口の増加は好ましいことだと思います。しかし、定住してもらうには、まず来てもらわなければ始まらないとも言えます。また、〈交流〉ですが、日本の人口は15年後には減少します。ただし都市化は進み、都市人口は若干増えるかもしれません。いずれにしても、単純に人口増とは考えられません。都市間競争がいろいろ言われていますが、その都市間競争で勝者と敗者が出て、単純に勝った方が栄え、負けた方が廃れるという形があるとすれば、日本全体にとって好ましいことではないと思います。そこで理念的には、それぞれのまちが特徴を活かしたまちづくりを行い、それぞれ集客し合うような状態が好ましいと考えるわけです。そうしたことから、その種の流動性が活性化につながるのではないかと考えます。
 大学の中では、まちづくりを学問の対象として考えるわけですが、その場合、ただやみくもに対象に立ち向かえばいいというものではありません。きちんと理論的に対象を考察する必要があります。そこで試みに、まちづくりのタイプ表を考えてみました。タイプに分けて考えることにより、学問的に考える場合の枠組を設けるということです。ただし、これは完全なものとは考えておりません。あくまでも最初のバージョンであり、このタイプ表を使って、今後様々なまちを分類しながら、実例に沿ったかたちで改良していきたいと思います。
 分類作業を進めていくうちに、例えばまちの人口による違いが見つかったとすれば、つまり、ある一定数の人口を境に、それ以上のまちとそれ以下のまちでは、明らかにまちづくりのタイプが違っているという特徴が見つかるかもしれません。それは、現実にまちづくりを考えている自治体にとっても、参考になるかもしれません。あるいは、地域的な特徴、例えば道内のまち、都市のまちづくりタイプの特徴、さらに日本全国の中における、北海道のまちづくりの特徴も見つかるかもしれません。それを踏まえ、現在のまちづくりの方向性を発展していくことも考えられますし、逆に全く新しい方向をとることも考えられるのではないか。いずれにしても、大学の中でまちづくりのタイプ表を作り、いろいろ考察するわけですが、それを通じて改良・改善を重ね、現実や現場の役に立つようなものに作り上げていければと思っております。
 タイプ表の分類は、行政中心型、産業中心型、文化中心型に分けました。中心というのは、これが全てではないということで、複合型が当然あり得るわけです。例えば、函館市のようなサイズの都市であれば、一つだけでまちづくりを行うのではなく、タイプの組み合わせになると思います。もっと小さいところであれば、とりあえず産業中心型の特産品型でスタートすることもあり得ると考えます。また、行政中心型の民間知恵導入型とは、行政経営手法を取り入れたまちづくりの考え方、NPM(New Public Management)を取り入れたものです。具体例の一つとして、帯広の市長の市政方針演説で、はっきり言われています。
 いずれのときにか、実際に役に立つタイプ表を作り上げていきたいと思っております。

市岡(コーディネータ−)
 どうも有り難うございました。都市文化論の視点から、学問的体系をつくるため、どのような整理を行うか、そして〈集客〉と〈交流〉がまちづくりのキーワードになるというお話をいただきました。
 5人のパネリストの皆様に、それぞれご専門の分野について活動内容や研究成果をお話しいただきました。第2ラウンドとしてパネルディスカッションに入りたいと思います。
 「都市は蘇るか」というテーマで、基調講演の鳴海先生から都市ツーリズムのお話がありました。長岡さんのお話の中にも、産業がなければ生き残れない、人が大変重要な要素になってくるとありました。また、筑和先生のお話にもあった集客と交流は、まさにツーリズム、観光産業とはそれを実現できる産業であると考えられます。
 第2ラウンドは、地方都市の再生に向けてというテーマに変わりないのですが、せっかくの函館市開催の会議です。中心産業として観光産業があるわけですが、観光産業という視点を入れ、その活動内容等についてお話をいただきたいと思います。
 最初に渡邊さんから、赤煉瓦倉庫の再生のお話を伺いましたが、都市再生のサクセスストーリー、観光の集客に関しても非常に大きな成果を挙げられております。地元でいろいろ活動されていて、観光産業の視点から他にどのような活動があるかお話し下さい。

渡邊(パネリスト)
 青年会議所の若い皆さんが熱心に取り組み、今年で6年目ですが、クリスマスファンタジーを12月1日から25日まで開催します。姉妹提携しているカナダのハリファックスから約20mのモミの木を運び、私どもの倉庫前の海にはしけを浮かべ、ツリーを飾ります。冬の何もない時期に盛り上げて頂き、ここ1・2年、エージェントの方々にも浸透し、冬場もかなりお客様を動員しています。冬の観光としても、かなり目玉になってきていると思います。

市岡(コーディネータ−)
 コメンテーターの韮澤先生は、いろいろ地元の活動に関わっておられますね。観光産業に関する活動をご紹介ください。

韮澤(コメンテータ−)
 函館山の上で行われる「函館イルミナシオン映画祭」があります。函館は、様々な映画の舞台になっていて、函館の都市の環境・風景が、全国的に発信されています。このように、映画を中心にして函館を上手に盛り上げてもらおうと、いろいろなイベントがあります。ついこの間、映画のシーンを舞台にしたウォークラリーも行われました。一つの切り口というか、使い方として函館を上手に評価してもらう動きがあります。

市岡(コーディネータ−)
 観光活動として、クリスマスファンタジーも最近はニュース等で取り上げられ、全国的に有名になってきていると思います。私自身は今日、札幌から来ました。私も大学で教えていますが、函館出身の学生たちの「函館山を見るとほっとする、港を見ないと調子が出ない。」という話を思い出しました。そうした資源を観光のイベント、観光資源として活用することは、今後も産業振興の面で非常に大きな鍵になると思います。
 折谷さんには、地域の中での活動事例を挙げていただきました。市民運動として、NPOのかたちで推進されていますが、他に何か補足することはありませんか。

折谷(パネリスト)
 スプリングボードユニティ21のメンバーの中には、社会に参画したいという気持ちを持った人がたくさんいます。しかしボランティア団体なので、何か行うためには資金集めなど、正直言って大変です。一過性で終わる場合もあるので、長く10年20年と持続していくためには、有償ボランティアで継続したいと考え、現在NPOの手続きをとっております。先ほど事例として紹介いたしました「花と緑が育むあしたづくり」のシンポジウムで感じたことですが、個別のお花の香りや種類に好き嫌いはあっても、お花や緑全般を通して嫌いな人は少ないと思います。例えば函館市内の駅、道路、空港、港など、まち中が花や緑で一杯になったら、住んでいる人も観光客も目で見て楽しみ、目が不自由であれば香りでいやされると思います。きっと心が和み、「このまちって、いいなあ。素敵だなあ」と思うでしょう。
 函館のこの場所にはこのような花が似合うのではないかとか、皆で地域に合った景観を考え、勉強会を開いたり、毎日の水やりや草むしりなどは有償ボランティアにお願いし、人が変わっても持続可能で、お金が回るようなシステムができればと思っています。花と緑のまちづくりは、年齢や性別に関係なく、人と人とをつないでくれると思います。楽しみながら社会に参画でき、美しい街並みができたときには、自分たちがつくったという誇りになるでしょう。その誇りから郷土愛が生まれ、自慢したくなると思います。そういう人が増えれば、住んでいる人も、函館のまちをもっと好きになるのではないかと思います。住んでいる人の心が満たされるようなまちが、住みやすいまちだと感じます。

市岡(コーディネータ−)
 今のお話に、活動は持続的に継続することが大切であるとありましたが、資金集めの大変さというお話も出ました。具体的にお話しください。

折谷(パネリスト)
 道や市から補助金などをいただきますが、2分の1補助だったり3分の2補助だったりします。例えば全体の予算を組んだとき、残りの費用はみんなで集めなければなりません。各自のつてで、いろいろな企業にお願いに行ったりしますが、お金だけが全てではありません。確かに元手がなければ始まらない部分がありますが、当日、人が来ないのでは?という不安もあります。イベントが盛況に終わり、たくさんの人が来てくれて、参加された方々から「良かった、来て良かった」との声を聞くと、支援して下さった方たちも喜んでくれるのですが、それを企画段階で趣旨を伝え、ご理解の上協力してくださるまでが大変で、こちらの思ったとおりにはいきません。ですから、ほかのまちづくり団体の方たちと実行委員会を組み、皆さんと協力しながら資金を集めてまいました。その面では本当に大変でした。何か良いアドバイスをいただけたら嬉しいです。

市岡(コーディネータ−)
 吉岡さん、その点について何かアイディア、サジェスチョン等ありますか。

吉岡(パネリスト)
 一番悩むところですね。やはり活動推進のためにはある程度の元手がないと、やっていけない。私も札幌で自分の市民グループで活動していますが、リーダーはそこが一番悩みの種です。やり方としては四つしかなく、会費・寄付金、自分たちで事業を行う、補助金、最近の特殊な例ですが風力発電のような市民出資です。この四つの方法しかなく、自分たちのやりたいこと、置かれている状況による組み合わせです。風力発電は回していればお金になるので、市民出資という特殊なやり方でもできますが、結局は事業を行うか、寄付金か、行政とパートナーを組むかの三つになり、その組み合わせだと思います。決定打となる解答はありません。

市岡(コーディネータ−)
 先ほど、強い意志があっても、それを実現するのは非常に難しい部分があるとコメントいたしました。資金繰りは大変大きな問題になってくると思います。鳴海先生の基調講演では、大阪の事例を紹介していただきました。資金集めの面で、先生からアイディアをいただけますか。

鳴海(コメンテータ−)
 私自身も、あるNPOの副代表をしています。やはり事業をして、稼がねばなりません。最初はあまりお金がありませんが、いろいろなタレントを持った人がメンバーにいて、その人を材料にして、ちょっとでもいいから儲ける。先ほどの絵葉書の事例でも、大阪は商売の都ですから、ともかく稼がんとあかんという発想です。企業も金儲けばかりに熱心なわけではなく、むしろまちに対して熱心です。まちが潰れると、自分の商売も潰れるので、一緒に考えたいと説明すれば分かります。そうした説明を丁寧に丁寧に続けていけば、お金を集めるのはそう難しくないし、自分で儲けることも絶対必要です。

市岡(コーディネータ−)
 韮澤先生、函館市内の他のNPOの活動等では、どのような工夫がされていますか。

韮澤(コメンテータ−)
 私は札幌にいたときに市民活動をしていたので、それに絡めて函館に関するお話をします。まず、私がいつも言っているのは現場主義です。その場所に行き、そのまちのことを考えなさいということです。例えば、函館なら山に登りまちを考える。もちろん、普通に街中に身を置いて函館を考える。また、海から函館のまちを見て考える。海は港に通じますから、港に船を浮かべて函館のまちを考える。その他に、川から見て、函館のまちを考えます。私は、札幌の創成川を視点に、札幌のまちづくりを考えたことがあります。函館のまちの中でも、特に大門地区で始まった「塩ラーメンサミット」は今年で2回目ですが、結構大きな盛り上がりを見せ、学生ボランティアを含め、最近見たことがないほどの動員でした。
 もう一つ、もう少し息の長い市民活動の話をします。場所は西部地区に、今、函館からトラストという活動があります。今から10年以上前、西部地区の昔の姿はどうだったか。例えば建物の色はどんなだったか。どういう調査ができるか。サンドペーパーで建物のペンキ塗りをこすってみると、新しい色から、段々“変わり玉”のように、古い色が出てきます。色相輪と呼んでいますが、その色を分析することにより、どの年代のペンキであるか、この建物がいつごろ、何回塗り替えられたか全部分かります。すると、大正期、昭和初期、終戦直後など、時代時代のまち全体の色の雰囲気が分かり、まちの姿を上手に浮かび上がらせる研究です。実は、これは市民のボランティア活動で行われました。
 お金の問題ですが、その活動をある財団に、「まちづくり活動の報告」として応募しました。すると、非常に大きなまとまったお金が、ポンと出されました。その活動が、評価されたということです。そのお金を一時信託資金とし、当時はその利息だけで継続した活動ができると思われましたが、現在は利息が下がって苦しいところです。ただ、そのお金を使いながら、今度は、小さなまちづくりの様々な団体や活動に対し援助しています。また、いままでさんざんペンキを削っていたので、今度はペンキを塗る活動を始めました。今までのペンキが剥げてきて、寂しい感じになってきても、お金がなくてそのままになっていた、下見板張りの構造部分をきれいに塗り替えるボランティアで、まちを元気にする活動を行っています。夏の土・日曜の2日間に亘って行い、そのための援助もしています。
 さらに、小中学生対象のまちづくりの作文コンクールや、絵画コンクール、大人のエッセイなどを募集しています。このように、まちを生き生きさせるための資金に使っています。

市岡(コーディネータ−)
 一夜漬けのような知識ですが、まちの再生ともいえる色の歴史に対する取り組みは存じておりました。韮澤先生から具体的にお聞きし、財団に応募して資金を得る方法も学ばせていただきました。
 さて、道内でいろいろな活動に従事されている吉岡さんから、コミュニティビジネスという視点から見た動き、また都市経営の視点から、都市再生への方法について長岡先生にお話しいただきました。筑和先生からは、都市文化について、集客と交流というお話がありました。キーワードとしては、協働、人、触れ合いなどが出されています。最終的には、もう少し具体的に、函館だからできることは何か、北海道都市が蘇るにはどんな提言が必要かという話にまとめていきたいと考えています。
 先ほどは、函館の事例も交え、具体的なお話をいただきました。吉岡さんは、コミュニティビジネスの視点から、道内各地でコーディネーターとして活動され、「中の人間だけでなく、外からの視点が必要である」と述べられ、筑和先生も同様の趣旨を述べられました。また、吉岡さんは、「人の思いがまちを動かした」とも言われました。“寄ってたかって”と表現されましたが、その思いを共有させるまでに非常なご苦労があったのではないでしょうか。

吉岡(パネリスト)
 コミュニティビジネスと「思い」という二つのキーワードを、分けてお話します。先ほど長岡さんから、食い扶持としての産業がないと、まちを維持できないというお話がありました。暮らすことと稼ぐことにバランスが必要です。ただ、がっぽり稼いでがっぽり使うのか、そこそこ稼いでそこそこ使うのか。あるいは違ったかたちで均衡を保つのか、やり方はいろいろだと思います。
 稼ぐ方法として、中にある物を外に売る、外から人を連れて来る、中で回していくという三つの方法が主だと思います。中から外へは、農村地帯で展開しやすく、農産物などの付加価値をつけて出荷するなど、物で代表されます。外から中へとは、函館もそうですが、人を惹きつけていくことです。もう一つ、中でぐるぐる回すということは、暮らしに役立つものを産業としてつくっていく。ただ、あまり大きなものはできないし、企業として成立しにくいもの、企業が取りこぼしているものもたくさんあります。そこを市民が担っていくというのが、コミュニティビジネスの考え方です。
 コミュニティビジネスの定義は様々になされていますが、一番簡単な定義は、地域を元気にする仕事です。一般的なものとしては、まず地域に対する市民の強い「思い」からスタートにします。また、地域に必要なことをやっていく。それは介護かもしれないし、観光あるいは環境かもしれない。しかも、市民自らが名乗りを挙げてやっていく。それを続ける方法の一つとして、ビジネスという視点を加え、永続性を保とうというのがコミュニティビジネスの定義です。
 先ほど紹介した室蘭の事例で、市役所もショッピングセンターも自分たちで建てたと述べました。建物だけ見るとバブリーな感じがしますが、市民会館も最初は600人収容の40年前の市民会館があったのですが、やはり地区に合った200人くらいの、葬式もできるものをというコンセプトがありました。そのうち市長公約に挙がったりして、構想が大きなものになり、今さらいらないとは言えないという事情がありました。これも商業者が中心となり、皆で出資し合ったコミュニティビジネスの一つです。
 私自身が、最も原始的なコミュニティビジネスだと思います。たくぎん総合研究所という会社で仕事をしていても、地域も変わらないし、いらないものでも必要と書かねばならない。そうではなく、市民の立場でお手伝いするような仕事をしたかった。総研時代の半分ほどしか収入がないので、正直言って経済的には非常に辛い。でも周りの人は、ずいぶん元気そうだし、楽しそうだと言ってくれます。違った価値観です。金額的には非常に厳しいが、地域の人に対して正面からお手伝いできたり、自分の住んでいる札幌や、ふるさと三笠で行った治験を実践できます。本当に一人でやっているので、原始的な、最も小さい単位のコミュニティビジネスかなと思います。総研時代は主任研究員でしたが、今は地域の客員研究員です。研究員は皆さんであり、足りない部分を客員としてお手伝いしています。
 今、景気が悪くなり、役所も予算が乏しくなり、まちは崩れていっている。困っているところに、コミュニティビジネスとはいい言葉だ、市民の皆さんあとはよろしく、そういう印象がなきにしもあらずです。コミュニティビジネスで頑張ろうと言っていれば、何とかなるという雰囲気を感じますが、そう簡単なものではないでしょう。会場の3分の2の方々は毎月給料をもらえると思いますが、自分で稼ぐことは本当に大変です。私も妻に「来月どうすればいいの」などと言われると、稼がねばならないと思います。しかし、自分の「思い」は失いたくないので、せめぎ合いです。それでも7年経ち、生きていけるいい時代になったと思います。NPOにしても金を稼ぐのは大変ですが、成果は必ず出てきます。
 コミュニティビジネスには四つの必要な要素があると思います。一つは、地域のことを思って始めるということです。地域の身近にあるものを手がかりに、何をするかが二つ目。三つ目として、やはりビジネスですから、経営能力が必要です。四つ目は、能力があっても、地域の皆さんの応援がないと実現しません。人を活かし、人に活かされる仕事です。ただ、自転車で言えば前輪に当たる部分、方向性を決めるのは、最初の二つです。そして、どういう地域資源を手がかりに進んでいくかが、事業分野につながっていきます。
 「思い」は、自分の自信や誇りです。従来の行政主体のまちづくりでは、自分の内面はクローズアップされませんでした。経営学では暗黙知といいますが、自分の心の中にある思いです。それが文章や言葉、数字になったものを形式知といって、誰でも分かるかたちになります。役所の場合は報告書、データなど形式知から先に入ります。室蘭の場合、最初に大事にしたのは暗黙知です。皆の思いを共有することがスタートであり、これを怠ると、“金の切れ目が縁の切れ目”というかたちになってしまいます。思いを共有化するためには、同じ体験をしたり、同じものを見たり、劇場性が大切です。その意味で、イベントは場面を共有するし、劇的な要素もあって、まちづくりの初期には非常に効果的です。しかし、それで終わっては、マンネリ化することが結構多い。やはり暗黙知から形式知へ、皆が分かるように体系化していかなければならない。そのためには、ワークショップが有力な一つの方法です。しかしそれを誤解し、中心市街地活性化法でワークショップをしろと言っているから…というのが最近多く、そのもう一歩前をしっかりやることが重要です。
 二つ目の手がかりである資源について、長岡さんが「人を見つける伯楽は、外からの目である」と述べられました。地域に住んでいる人の方が地域に一番詳しいはずなのですが、実は一番知っていない。日ごろ見慣れているので、空知で行っている炭鉱遺産など、ゴミだと言います。でも、外部から見れば廃墟が美しいと言う人もいるし、写真の素材にする人、裏に隠された歴史を感じる人もいます。やはり外からの見方を、うまく地域に反映することは、観光の大きな役割の一つだと思います。
 そして後輪に当たる経営能力に期待したいのは、商業者や事業者の方です。渡邊さんのように、普段会社を経営している方に、ちょっとノウハウを分けて頂けば、スムーズに運ぶことが多い。思いの共有があって初めて、地域の協力が発生します。協力すれば思いも深まるという循環も生まれます。
 新規創業、ニュービジネスもありますが、これは単に儲かる分野に進出すればいいだけで、どこの地域でもかまいません。やはり地域に対する思いがベースになり、売上高で2,000万円から3,000万円の小さな会社でも、10も20もできていけば、地域の活性化につながる有力な方法でしょう。市民活動を継続し、熟成させていくうちに、コミュニティビジネスにつながるのではと思います。

市岡(コーディネータ−)
 吉岡さんに質問が寄せられています。北海道大学 香坂さんから、『まちづくりにとって最も重要なのは、人的交流、ネットワークによる合意の形成であると言っても過言ではないと思います。ワークショップを盛り上げる具体的なコツは何であるとお考えですか』という質問です。気をつけている点、ポイントはございますか。

吉岡(パネリスト)
 何も手練手管を使っているわけではなく、私も思いの合わない地域とはできません。しかし、頑張りたいという思いがあれば、お手伝いすることにしています。最近よく見られるケースで、「予算は5回分あります、年度末までにこの事業を終えねばなりません」と、5回で結論を要求されます。“落としどころ”という嫌な言葉がありますが、こんなことをしていては絶対盛り上がらない。それはやってみないと分かりませんが、そのときの合意や確認できたことに、一つずつ急がずに取り組めば、前向きになってガラッと人が変わる局面が出てくる気がします。逆説的に、盛り下げないコツは、あらかじめ目標線はあっても、行き着けるかどうかはやってみないと分からないということを覚悟しておくことです。道内の自治体で多いのは、集めた方に対して、「大したことを言わないだろう」とか、「とんでもないことを言い出すのでは」とか、あまり信じていない。やはり信じた方がいいです。信じて裏切られることもありますが、ただ時間がかかるというだけで、きちんと自浄能力はあります。
 また、内々だけでやって紛糾するときには、はやり外の目があった方がいい。私のように外から加わると、喧嘩両成敗、おかしい面が見えてきます。例えば数年前、ある道東のまちで総合計画作成のワークショップをお手伝いしました。町民の参加者が、「役所は時間外で出て来るから、平日の夜会議をするんだ、おかしいじゃないか」と言うので、土・日に開いてみました。でも、参加者は相変わらず少ない。私は外の人間ですから、「どうせ来ないじゃないか、役所だけの問題ではなく、皆さん方にも問題がないですか」と平気で言える立場にあります。外の目もうまく加味しながら、やっていくことだと思います。

市岡(コーディネータ−)
 ワークショップには外の目が必要だというお話をいただきました。先ほど、長岡さんも、外からの視点が推進のために必要だと述べられました。また、都市再生に向けて、都市経営の視点からお話をいただいていますが、都市経営の具体的な推進方法について、もう少し詳しくお話しください。

長岡(パネリスト)
 補足させていただきますが、生存領域、ドメインの確定という言葉が経営学にあります。会社や組織体は、常に継続体として生きていくわけです。そのために人を採用したり、設備投資をしたり、内部資金が不足すれば借金をして要員訓練を行い、製品を作ったりサービスを提供してマネーをいただき、従業員に給料を支払い、銀行に元金と利息を返して株主に配当するという様々な作業をしています。これを都市・地域経営という切り口で見た場合、地域も生き抜いていかねばならない。例えば、函館で生きていてよかった、住んでよかった、終焉の地にしたい、というまちにしなければなりません。その観点から、都市づくり、都市再生に関わる都市マネージャーは、非常に重要になると思います。市長や都市開発部長などではなく、先ほど申し上げた名馬の方々が、都市のマネージャーになると思います。
 そこで特に重要なのは、吉岡先生が強調された「思い」です。まちづくりは如何にあるべきかと、真剣に考えていくというベースがないと、腰がふらつく面があります。中央政府が補助金をつけ計画をつくる。金がつくとなると、わぁっとぶら下がる。毒饅頭か毛鉤か知りませんが、それではダメです。これはちゃんと腰が据わっていないということです。
 北海道の場合、明治の開拓使から始まり、非常に中央政府のコントロールに大きな影響を受けてまちづくり、地域形成をしてきた経緯があります。どうも、その残滓が残っているようです。鳴海先生にはもっと言って欲しいのですが、関西ではだいたい役人などになりません。「役人なんて最後になるものだ、なんぼのもんや。」というのが関西です。先ほど申したイコールパートナーとは、上から言われるものではない、皆で一緒にやるんだということです。
 まちづくりがいかにあるべきか。ずっと考えると頭が痛くなるので、1日1回くらい考える。そういう領域を自分たちで作っていく。これがドメインの確定です。そこで行き着くのは、やはり人です。行政もこれを支援すべきですが、地域はそれぞれ苦しいので、こんな高尚なことは言ってられないという声も出てきます。しかし、“貧すれば鈍する”でやっていくのか、過去のしがらみにとらわれず前向きになるのか、ここが分かれ際です。前向きに苦しまないと、損だということです。先ほどお話したように、重石がだいぶとれてきたので、やれるんです。考え方を変え、ドメインをきちんと決めやっていけば、明るいです。
 人間は、明るくすれば明るくなります。心配はありません。ただ、暗く思う人は暗くなって“死んでどうぞ”ということで、これは仕方ないことです。皆がハッピーになどなり得ません。予定調和のようなことを考えていますが、世の中それはありません。産業も、地方政府も企業も、皆がハッピーになどなっていません。ただ、先述したように、人を大切にし、研究開発をし、強い思いを持って地域づくりをした地域は、蘇っています。
 産炭地は確かに非常に辛いですが、九州などで成功した例もあります。事例を示せ示せと言うので、つくりました。3,000円しない本で、どうやって成功し、あるいは失敗したか、問題は何か、全国の事例が全部載っています。中心市街地のシャッターの問題も、日本全国調べました。どこが成功し、そのコツも全部載っています。「ぎょうせい」から出版し、書店にもあります。当銀行でつくったので、ホームページでリクエストすれば、ただでくれると思います。
 ここに共通しているのは、吉岡先生のお話に尽きます。ネバーギブアップ、そして心を明るく、前向きに苦しむこと。後ろ向きに苦しむような話ではない。前向きに苦しめば、人は寄ってきます。明るい人、明るい地域に寄ってきます。暗い人からは、皆逃げていきます。地域には明るくしようとする名馬、あるいは伯楽がいますから、頑張れば明るい将来があります。しかし、その裏側で、落ちるところもあるということも、頭の片隅に入れておくべきだと思います。

市岡(コーディネータ−)
「人を大切にする」というお話が出ました。折谷さん、渡邊さんも地域の一市民として色々な活動をされていますが、やはり地域全体で、「自分が主役である」という認識や、誇りを持ち自分から活動することは、そこに到るまでに難しい問題があるかと思います。函館市の「人を育てる」あるいは人材に関する取り組みに関して、韮澤先生にお伺いします。

韮澤(パネリスト)
 長岡さんの元気のあるお話の中に、「人づくりに投資しなければ没落するだけだ」とありました。人づくりは、様々な方のお話にも出てきます。函館の歴史を遡って考えますと、明治にそのような時代がありました。皆さんは明日、西部地区と摩周丸を中心に市内見学をされるそうです。西部地区には、港を含め函館のまちをよく見渡せる、いわゆる観光ポスターによく用いられる坂があります。観光ガイドがよく、坂の上から見下ろしてごらんとアドバイスしています。
 その坂のちょうど後ろに、函館西高校があります。以前は函館高等女学校で、明治38年に設立された学校です。ところが、これが函館の女学校の最初ではなく、西高校から左に目を転じると、コンクリートの建物があります。これは白百合高校の以前の建物で、現在はロシア極東国際大学が使用しています。ここに白百合の前身である聖保禄女学校ができています。昔はフランス学校といっていましたが、明治19年の創立です。これも最初ではなく、その隣の遺愛女子学校は、当時、カロライン・ライト・メモリアルスクールと言われたらしいのですが、明治15年にできています。従って、明治時代にいわゆる女学校が三つ、同様のエリアで肩を並べて存在しました。ということは、それだけ女子の教育に力を入れたこともありますし、財力もあったということです。同じエリアでそれぞれの学校が成り立ったことは、教育するという気持ちが非常に強かったわけです。
 そうした教育力が、現在の函館にあるかと問われれば、ちょっとどうかなと考えることがあります。昔の歴史に学ぶと、人をつくることが、これからの函館のまちにとってどれだけ大事か。もちろん男子の学校も函館商業学校など、明治初期から在ったのですが、ただ、女子学校もそれだけあったということは、全体として、お金の投資先を間違えず、教育に使っていったということです。
 また、函館の歴史をさらに遡ると、江戸時代の終わりに、豪商が出てきます。銅像もそのエリアにあるので見学されるでしょうが、高田屋嘉兵衛という豪商の時代があります。次の明治時代になると、函館の財界四天王の時代があります。函館財界四天王として、渡邊熊四郎、平田文右衛門、今井市右衛門、平塚時蔵、このうち渡邊熊四郎は、今の金森財閥の前身であります。この4人の財界人が現在、四天王として顕彰されているのは、商売で貯えたお金を自分のものにせず、函館のまちづくりに使ったからです。学校を建て教育を行ったり、道路などの整備に使いました。財力の使い道を誤らずに、次の函館のまちづくりに使う。単にインフラ整備だけでなく、人づくりにも投資したということです。
 私が函館の歴史を考えるとき、今の函館はこれからどうなるんだろう、どうせねばならないかも考えます。つまり、今の若者を育て、次の函館をどう背負ってもらうかを含め、時々考えさせられます。我々の函館は一地方都市になってしまいましたが、将来を考える際に、昔の函館の人々がどういう思いで、どんな行動をしたか振り返り、大いに学ばねばならないと思います。

市岡(コーディネータ−)
 地域にとって、そこに住む人は大きな財産だと思います。それに投資したり、教育力を忘れない視点は、非常に大切だと思います。
 長岡さんに質問が2点寄せられています。函館カラートラスト事務局の川内さんと、北海道大学の草津さんです。

川内(フロア)
 本日はとても素敵なお話をたくさん聴かせていただき、とても感謝しております。函館市にはつい最近まで、函館市の港にある埋立地の緑の島に、水族館を作ろうという計画がありました。水族館には観覧車を設けるということで、景観の面から市民の間で非常に話題となり、反対運動などもありました。長岡さんの所属される銀行が融資をするしないというお話もあり、結局中止になってホッとしています。大型の開発事業は、とても役に立つこともありますが、大規模なだけに、“まちこわし”につながることもあると思います。そういうことに対する融資は、金銭的なバランス面ではなく、景観やまちの美観を考えて行って欲しいと思います。
 鳴海先生が先ほど、スモールビジネスについて話されました。それは多分、そこに住む人たちが表現するようなビジネスだと思います。生活住民の息吹が伝わるような、ビジネスが生まれると思います。是非これを応援してほしいと思いますが、金融機関はとても厳しい状況で、まちづくりにおいて、スモールビジネスに対する融資などでバックアップするようなアドバイスや、計画がおありでしたら、個人のご意見で結構ですのでお伺いしたいと思います。

長岡(パネリスト)
 緑の島の観覧車プロジェクトですが、これが議論されたのは5年ほど前だったと記憶します。当時私は東京におり、地域振興プロジェクトの総括をしていました。個人的には、ポートルネッサンスプロジェクトも勉強した経緯もあり、当時、函館の景観、産業、市民感情を踏まえ議論しました。そこに大きな観覧車を置いた場合、JR函館駅から観光客が見たり、市民の方が見た場合、函館山の前にドーンとあったら、いかがなものか。儲かればいいという話ではなかろう、というのが当時の私の考え方でした。当時の運輸省港湾局民間活力推進室が、函館市の港湾局といろいろ検討していたようです。緑の島は元々国有地だったこともあり、中央政府は活用したいという意識が非常に強く、私が反対だと聞いて霞ヶ関に呼びつけ、当時の推進室長からは「執行機関の人間が反対してるんだって? 生意気な。お前らは黙って仕事をやればいいんだ」と大分詰問されました。
 先ほど「思い」のお話をしましたが、我々の仕事は、地域の方々のニーズ、要望に基づかないものに融資することは間違いであり、また、間違いの例は死屍累々となるほど経験しているわけです。「某大企業がついているので、金は返ってくるから心配ないだろう」とも言われましたが、私どもとしてはできません。出せるものと出せないものがあるし、儲かればいいというものでもありませんと、すったもんだしていました。最終的には某大企業が、そろばんを弾いてお止めになったと仄聞しております。我々は前身である北東公庫もそうですが、金になるから貸すという方針ではないとご理解いただきたいし、私自身も体を張ったといえば大げさですが、当時の中央政府の国家公務員からえらく叱られました。また、当時井上市長が企画部長であられた函館市の方々からも、だいぶ叱られました。歴史的評価がどうなるかはまだ不明ですが、私はこのシンポジウムにもつながる「思い」から、自分の考えを通しました。
 2番目のスモールビジネスの件です。私は大企業が日本に必要ないとは思っていません。大企業があるから研究開発があり、新しい企業がスピンアウトしたり、そこにつながる小さい企業が出て来て負荷価値が国に落ち、我々の所得や税金が出てくるわけです。しかし、今は、思いを持った新しい小さいビジネス、確かに売上は小さいが、非常に優良な、あるいは非常に思いのレベルの高い黒字の会社がたくさん出て来ています。NPOも一つの形態です。これらに対し、従来の金融手法では支援できません。担保だ、保証人だと悪代官のように無理難題を言っては、スモールビジネスの方々の資金調達はできません。
 我々はこれに対して、コミュニティクレジットという新しい商品を開発しております。一言で言えば、現代版頼もし講、あるいは現代版無尽ですが、複数の企業の信用を担保とし、融資するという手法です。従来は、どうしても小さい企業単体に融資をすると、金利が高くなったりして、なかなか辛い。なので、複数の企業の相互の信頼関係を担保とみなすことで、ご融資しています。これ以外にも我々DBJとして、いろいろな金融手法を開発していますが、地方向け、スモールビジネス向きには、この商品が非常に有益でしょう。
 具体的には、神戸の三宮は震災を受け非常に苦労された地域ですが、パン屋とパソコンの学校、靴屋、クリーニング屋さんなど5社をひと括りにし、相互信頼に着目し、それを担保に融資をしました。実質は運転資金の要素が大きいのですが、1,000万円くらいの金額なので、うまくいっているようです。これもNPO関係の人から、新日鉄やホテル・旅館に金を貸すだけではないだろうという指摘があり、考えればいろいろなものが出てきます。このような機会を通して、問題提起をしていただきたいと思います。結論としては、スモールビジネスに対して、比較的安い金利で、実質担保がなくても、融資できる商品ができているとご理解ください。

草津(フロア)
 先ほど長岡さんは、まちづくりには産業の種が必要と言われました。それに関してですが、80年代・90年代の日本では、経済の余剰が文化を生んだという感がありました。今後、文化が産業の種、経済の核になるかについてお伺いします。その際、具体的な手法はあるでしょうか。

長岡(パネリスト)
 難しい質問です。隣の指導教官と、修士論文を作るくらいでしょうか。冗談はさておき、文化が金になるかという議論は、欧米でもよくあります。文化を金にしようという、根性が間違っているのではないでしょうか。長い歴史から見て、結果的にそうなります。例えば、最初のビールはメソポタミアでできました。大麦がえらく貯まって、発酵してビールになったそうです。余剰が一つの文化であり、文化をビジネスにしようとか、金にしようとするのは、我々のような大和民族は止めた方がよさそうです。結果として、きちんとやっていれば金になります。例えば函館のホスピタリティは、風土であり文化だと思いますが、それがあるから、北海道に来れば札幌と函館は必須で回り、海外の人も本州の人もお金を落とすわけです。
 私が修士論文を書くとすれば、これに少々化粧をして、うそも交えて書きますが、文化で金を取ろうとか、ビジネスにしようと考えてはいけないと思います。指導教官のお答えはいかがですか。

市岡(コーディネータ−)
 私もそう思っておりました。筑和先生のご領域にも関係すると思いますが、都市文化を中心としたまちづくりを考えた際、まず地域の固有の文化を発見し、共通認識を持つことも大切だと思います。吉岡さんから、それを顕在化することに難しさがあるとお話がありましたが、都市文化を中心としたまちづくりの視点から筑和先生、お話しくださいますか。

筑和(パネリスト)
 基本的に、今お話にあったとおりだと思います。まず、文化で金儲けをすることについて、良し悪しそれぞれの立場があると思います。例えばレコード、CDも文化の産物で、産業として成り立っています。その観点に立てば、必ずしも否定的ではない気もします。ただ、私自身も文化中心型のまちづくりを考えていますが、何も文化で儲けるということではありません。自分たちの文化を発見し、自分たちのあり方を主張するなり、形づくるなりし、それによってまちの魅力を創造し、その魅力によって人が集まる。
 分かり易いのは、倉敷市などがそうかもしれません。大原美術館をはじめ、まち自体が美術館の趣がありますが、さらに、市内に5大学4短大を誘致し、文化的雰囲気をつくる努力をしています。特に音楽系、美術系の大学スタッフや学生には、積極的に倉敷のまちづくり運動に参加を呼びかけています。簡単に言えば、私はそういうイメージで、文化を中心としたまちづくりを捉えております。
 いろいろお話にあったように、文化の発見はとても難しい。基本的には、自分たちのところに何があるか、ということだと思います。自分たちのあり方がどうであるのか。つまり、日常的に見ていてはなかなか見えませんが、角度を変えれば見えてくるかもしれない。角度を変えることも結構難しく、例えば椅子をひっくり返すとまた見え方が異なるようなイメージで、物理的に見る位置を変えるのも一つの方法です。高いところに登ってみるような手もあるかもしれません。
 もう一つ重要なのは、歴史的な感覚だと思います。自分たちが今ある場、建物、ことがらに、どんな歴史が刻み込まれているか知ることは、やや大げさに言えば、自分たちのルーツを知ることになると思います。
 実際にそれをどう動かすかですが、例えば、何らかの文化的運動が起こった場合、優れたリーダーがおり、グループもしっかりしていて、放っておいても進んでいく場合は問題ありません。しかし、NPOがたくさんできつつあり、中には戸惑いがある組織もあると思います。それらに対し、行政の力は非常に重要で、助力する必要があると思います。行政には情報があり、ノウハウやお金もありますから、積極的に助けるべきです。本来なら共創、協働なのですが、うまくいっていないものには助力してほしい。その際、行政が先に立って導くのではなく、育てることを念頭に、粘り強く忍耐を持って援助すべきだと思っています。

市岡(コーディネータ−)
 協働という言葉は、何回かキーワードとして出て来ています。パートナーシップの組み方と併せて、後ほど議論したいと思います。もうお一方、赤平市議会 宍戸さん、ご質問をお願いします。

宍戸(フロア)
 大変ためになるお話をいただきき有り難うございます。鳴海先生にご質問します。 
 私は赤平市の議員ですが、赤平市は炭鉱全盛期に6万人だった人口が、今では1万5,500人です。炭鉱は歴史的に、仕事がきつい、災害が多いというイメージがあります。最近は、炭鉱遺産として国際ヒストリー会議も開催されました。その際、炭鉱を掘る機械関係が展示されました。まちづくりにつなげる一つのテーマでもあったのですが、果たして続けていけるものかどうか。私も住民の方々と悩んでいるところです。人口は減ってくる、財政は厳しい。国からの支援も極めて困難。こんな中でどうしたらいいのか。
 高齢化率も31%になりました。高齢者の方々は、歴史を知り、知識や技術もあるのですが、高齢になりすぎる状況にあります。まちづくりにも大変悩んでいるところで、何か示唆がありましたらお願いいたします。

鳴海(コメンテータ−)
 なかなか難しい質問をいただき、吉岡さんの得意分野かもしれません。思いついたことを申し上げると、ドイツのエッセン地方も炭鉱と製鉄業が盛んでしたが、ドイツも日本同様、炭鉱を止めてしまった。非常に大きな地域問題として、国・州が取り組み、再生イベントを3・4年かけて開催しました。そのテーマは、産業遺跡を活用しながらの、新しいまちづくりでした。とても大変な状況でしたが、炭鉱であるので鉄道など一種のインフラはあります。それを活かして新しいまちづくりができないか、イベントを開催しました。エムシャーパークのイベントとして、世界中から多くの人を集めました。基本的には建築博覧会で、IBAエムシャーパークという、かつての炭鉱地帯を公園に見立て再生しようという、非常に壮大な試みでした。
 先ほどから、お役所の関係、人の問題など幾つか話題になったので、事例をご紹介します。私はかつて、兵庫県の役人をしていました。今でも兵庫県とお付き合いが多いので、情報もよく分かっています。兵庫県の山の中に100人ほどの小さな村があり、とても元気がいい。というのは、逃げるわけにいかない。皆で楽しく村を盛り上げていかないと、村がなくなってしまうかもしれない。ですから、全員が何かをやるという仕組みを作りました。山に強い人、農業に強い人など村づくり部会が三つあり、全員必ず何かの役を務めています。お婆さんも農産物を加工し、名物にする一種のビジネスをしています。日々のあらゆる活動を自分たちが楽しみ、少しでもいいから儲かるようにしたい。「出る杭を育てる」をスローガンで、年に1回イベントを開き、出る杭になるにはどうすればいいかと、若者やよそ者をおだてるわけです。面白ければ皆でどんどん実行していきます。赤平市はまだ1万5,000人もいますから、相当なことができると思いました。
 もう一つは、私の教え子で、神戸市に勤めた女性ですが、5・6年前に住民とまちづくりを行う担当になり、仕事の素晴らしさを理解するようになりました。日曜や夜間も含め、毎日住民と話すのは大変ですが、そっと背中を押すと動き出す瞬間があり、それが忘れられない。私は役人になってよかったと言っていました。彼女もそこまで育ったかと、感動しました。動き出す瞬間とはそういうものです。そっと押すと、皆さんが動いていって、我々が何もしなくてよくなる、という瞬間がやってくることを体験している人は強みをもっていると思います。それが人づくりの原点ではないかと思います。
 これは本で勉強した知識ですが、マンチェスターでも産業が疲弊しましたが、最近は元気になってきています。きっかけはオリンピックの誘致運動のため、議員たちがバルセロナ視察に行きました。長期滞在するにつれ、マンチェスターはバルセロナにかなわないと思ったそうです。視察に行った議員たちは、まちづくりに関心を持ち、市の専門職員だけでなく、コンサルとよく議論し、何人も専門家顔負けの実力をもつようになりました。その議員たちが、まちづくりの方針を自ら考え、実践したことにより、マンチェスターはとても元気になりました。
 私にとってはとても印象深い話があります。というのは、私のいる関西で、ある市の議会が、「市民参加が盛んにいわれ、市長も賛同しているが、これは議会無視ではないか」と激しく攻撃したといいます。議会があるから市民参加は不必要とするのは、見当違いだと思います。結構有名な市ですが、兵庫県の100人の村より遅れているとびっくりしました。先ほど来、行政と民間の協働が言われていますが、議会との連携も重要なことはもちろんです

市岡(コーディネータ−)
 事例を挙げてのご説明をいただきました。
 さて次に、将来を見たとき、市民、NPO、行政、研究機関、産官学の協働体制はどの産業でもいわれることです。現在は、それに地域が加えられていると思います。パートナーシップの視点で将来像を描いたとき、市民の立場、あるいは市民活動、事業者として何ができるか。行政はどう助け、育てるか。そうした視点で次のお話をしていただきます。
 まず、将来的にどういうまちでありたいか、どういまちが住み易いかというお話が出ました。函館市内で活動をされている折谷さんから、今後の活動の視点、目標について伺います。

折谷(パネリスト)
 鳴海先生のお話の中に「そっと背中を押す」という表現がありました。私は人前で話すのは苦手なので、本当に私でいいのか迷ったのですが、市の方から“ドンと”背中を押され、スプリングボードでジャンプしてここにいるような感じです。
 私も、まちづくりは強い意志と、熱い思いが大切であると思います。そのために必要な市民の原動力になるのは何か?始めにお話ししたいと思います。
 はるか昔、高田屋嘉兵衛が松前ではなく函館を拠点に置いたとき、当時の函館の人は快く受け入れました。宗教・文化・教育、何でも新しいことを受け入れられる寛大な心、慈愛の心を持っていたと思います。その後、開港都市として栄え、現在、ハイカラで異国情緒あふれる街並みになっているのもこの時代背景があったからで、函館市で取り組んでおられる、国際水産・海洋都市構想の「レトロ・アンド・フューチャー」や「マリンサイエンス」につながっていると思います。
 昭和9年、函館の3分の2が焼け野原になった函館大火がありました。そのとき全国からたくさんの激励や援助に励まされ、市民の努力でまちは元気な元の姿を取り戻しました。次の年、開港記念日を定め、第1回港祭りが行われ、現在も市民のエネルギーは、港祭りで弾けています。それは昔の人の希望と夢を託した心意気や、寛容さ、ホスピタリティが、ここに住む人の心のどこかにあり、それが原動力になって、お祭りで表現されているのではないかと思います。
 また、函館には年間530万人も観光客が訪れますが、駅周辺は空洞化が進んでおります。昨年、港町に水深14mの埠頭ができ5万トンクラスの船が着くようになりましたが、港町ではなく駅前地区に「クリスタルハーモニー」や「飛鳥」のような豪華客船が着くことができれば、乗船客は歩いて西部地区や金森倉庫に行ったり、駅前で買い物ができるようになります。市民も豪華客船は滅多に見られないので、駅周辺であれば気軽に見に行くことができます。昔は市民総出で北洋漁業の見送りを行っておりましたので、将来、豪華客船の送迎にたくさんの市民が駅前に集うようになれば、自然に活気に溢れ賑わいができると思います。
 函館は港で栄えてきたまちなので、市民はもっと海や港に関心を持ち、行政に依存するだけでなく、自分たちができることは何かを考え、函館の歴史や文化を自分たちの手で、守り続けていかなければならないと思います。
 そのようなことから今後の活動目標は、市民の心に眠っているエネルギーを如何に引き出し、それをまちづくりにどのような形で活かしていけるのか、また合併後、函館市民として住民の心がひとつになれるような、心と心が通うあえる活動の実現を目指していきたいと思っております。

市岡(コーディネータ−)
 伝統や歴史を感じながら、まちづくりをすることの必要性は、筑和先生、長岡さん、韮澤先生のお話もありました。NPOで活動されている折谷さんが、活動の原動力としてホスピタリティがあると認識し、それを育てていこうとされています。渡邊さんのお話でも、昔からあるものを大切にすることが、メインコンセプトになっていたと思います。
 では、本会議の司会者をされている藤本さん、ご質問をどうぞ。

藤本(フロア)
 私は函館っ子なので、渡邊社長の昔を大切にするコンセプトに強く感じ入ります。
つい先日も、金森さんのビヤホールと新しくなったロマン館をお訪ねしました。入ったときに、郷愁と同時にホッと温かなものを感じました。昔のものに懐かしさを感ずるだけでなく、新しい何かを提案しています。私は仕事柄、いろいろな情報が入ってきますが、じかに足を運び、触れてみると、紙面でみる情報とまた異なったものがあります。函館市民は、割と新しいものに触れることが少ない。逆に言えば、ちょっと遠くから見つめる部分があり、観光地に市民が足を運ぶことが少ないのではと思います。函館市民が集い、口コミで観光客の方と接点を持ちながら、自分自身のまちを好きになる。そんな方策はお持ちでしょうか。

渡邊(パネリスト)
 15年前ですと観光客が300万人台でした。函館の人口が30万人強、こうした事業を行う場合は、どうしても観光施設的な方に目が行くのは当然だと思います。しかし、先ほど言ったように、私たちは昔から函館にお世話になっているので、何とか函館市民の方に利用していただきたい。市民の方に認知され、評価されれば、必然的に観光客も来てくださるだろう。市民の方に観光客が、「あそこに行ってみたいが、どうでしょうか」と聞いたとき、「あんなところはつまらないよ」と言われては終わりだと思っていました。とにかく市民の方の憩いの場として、物販等も市民から見て楽しい、珍しいと思えるお店づくりを目指し、各テナントさんにお土産品は極力置かないように指導しています。
 しかし、そうしていながらも、市民の方にあまり来ていただけないことも確かです。交通アクセスの不便さもあるかもしれません。夜、飲食される場合も、アルコールを飲んだ場合の規制も厳しく、車を置いて飲む。そして二次会で五稜郭まで出かけるとなると、かなりのタクシー代になります。かといってあの辺りのバス等は、遅い時間まで運行していませんから、非常に不便さがあると思います。何とか足を運んでいただきたいと思っていますし、施設もあまり奇抜にしたくない。あの建物は、なるべくそのまま活かし、使っていきたい。ホール等も手作りで、こぢんまり使えるようなものですから、様々なイベントで使っていただきたい。一度使っていただくと、来年もご予約してくれます。一番多いのは発表会で、非常に評判がいいのですが、一般の市民の方々は確かに足を向けてくださらない気はします。
 私どものレストランである金森亭をBAYはこだてに移したときも、うちのスタッフには、函館は海産物等が非常に美味しい。ただし、鮮度を求める人のほとんどは、お寿司屋さんに足を向けられる。だから、うちはイカ一つとっても、何らかの加工をし、市民にも観光客にも「こういう食べ方があるんだ」と思われるような提供の仕方をしようと、懸命に取り組んでいます。そのメニューの一つとして、イカ飯の製造者にお願いし、中のご飯に味をつけず加工してもらう。それに秋を意識して、キノコのソースをかけてお出ししています。市内の方も、観光客の方も、「珍しいね」とオーダーしてくださる。私どもが市民の方にアプローチする、宣伝効果がまだないのかもしれませんが、もっとたくさん来ていただきたいとは思っております。どちらかと言えば限られた方ですが、リピーターが多いことも確かです。

市岡(コーディネータ−)
 折谷さんのお話は、歴史に育まれた、函館市の持つホスピタリティを今後も実現していきたいという内容でした。渡邊さんからは、市民に愛される場でありたい。どうすれば来ていただけるか模索中というお話でした。その市民が集まる場が、観光客との交流の場にもつながっていくと思います。
 ただ今お二人に、市民サイドからお話をいただきましたが、各パネラーの先生からも、外からの目という視点で、各々のお立場からの意見をいただきました。
 いろいろ具体的なお話もいただきましたが、ご提言あるいはご提案をいただきたいと思います。では、筑和先生、お願いいたします。

筑和(パネリスト)
 先ほど鳴海先生のお話にありましたが、まちづくりをきちんと行えば、観光客は自ずと集まると言えます。私が以前考えたことですが、観光の三大要素とまちづくりの基本的要素は重なるのではないか。おおざっぱに言えば、自然・文化・歴史であり、それを意識してきちんとまちづくりを行えば人は集まるでしょう。観光の対象も自然・文化・歴史であるというわけです。実際、他の人も言っていますし、ものにも書かれています。函館はその意味から、非常に可能性があると思います。私は観光だけに絞っても大丈夫だと思っていますが、タイプ表で見れば、これだけの規模なら特産品の要素も当然であるでしょう。また、文化の面では、野外劇というすばらしいものもあります。函館山の映画祭も続いており、自然・文化・歴史の要素が全部あります。少し抽象的な言い方ですが、それを意識し、念頭において、それぞれのものをリファインしていけば、良い将来が描けると思います。

長岡(パネリスト)
 私の問題意識はちょっと違って、函館といえば観光ですが、これは日本人を想定していると思います。今、我々は世界全体の観光について勉強しております。今来ている人たちは非常にリッチで、バブリーな人ですが、中華人民共和国が非常に高所得者になってきます。我々日本人が戦後あくせく働き、ハワイ航路に憧れましたが、今はいつでも行ける時代になりました。あと10年もしないうちに、中華人民共和国のかなりの人たち、奥地ではなく沿岸地域の人ですが、海外に出ていきます。私どもの海外のインバウンド調査では、中華人民共和国、台湾、大韓民国すべて異なっています。リピーター含め、傾向と対策を調査しました。目の前に日本があるから、当然日本に来るだろうと思うとそうではありません。ジャパンパッシング(Japan Passing)で、日本を通り過ぎて直接アメリカに行ってしまう可能性があります。飛行機に乗って、ハワイやアメリカ西海岸に行ってしまうわけです。
 ジャパンパッシングが始まったとき、函館の観光はそれでいいのかどうか。先ほどの研究開発投資にも関係しますが、その辺も少しスタディしておく必要がある。国内の話は分かりやすい。高齢化を迎え、リタイアした人たちがご夫婦で「函館でも行こうか。湯の川温泉は高いけれど泊まろうか」となるわけですが、限られたマーケットです。これで良しとするかは、地域の判断です。良しとしないとすれば、もう少し東アジア、東南アジアに視野を広げ、ジャパンパッシングが起きないように展開する必要があります。
 実はここにビジネスチャンスがあります。今まで小さいまちだったり、産業が没落して苦しかったまちが、目覚ましい勢いでオセロゲームの白になる可能性があります。国内のマーケットを相手にしていてはオセロゲームにならなくても、目の前の中華人民共和国や台湾などでは非常に高所得者が増えてきています。日本人より金持ちです。富山に来た中華人民共和国のリッチな人たちは、3泊4日、チャーターで来て、1人100万円使っています。我々が知らないところで、もう地殻変動が起きています。もっと大きく目を開いて頂きたい。函館は魅力があるから皆が来る、この思い上がりを捨てたほうがいいです。磨いて磨いて、磨き上げなければなりません。冷や水をかけるようですが、そう思わないと、ジャパンパッシングの中、あっという間にオセロゲームの白が黒になる。日本の他の観光地でも、このジャパンパッシングへの対策を議論していることをご理解いただきたいと思います。
 先ほどの修士論文の件で、レポートを一つ書き忘れたので、補足したいと思います。文化の件です。私は今、金融業の仕事をしていますが、本業はレィピドプテレス(Lepidopterist)といって昆虫学者です。生物の多様性への調査、分類研究を行っています。これが本業で、金融業は世を忍ぶ仮の姿です。ヨーロッパは植民地時代、世界からロゼッタストーンをはじめ、貴重なものを収奪しました。一部は返しましたが、強欲に残すものは残しています。昆虫の標本にはタイプ標本というものがあります。モンシロチョウならモンシロチョウを認定する標本が必要です。専門的にはパラタイプと言いますが、これはほとんどが大英博物館にあります。我々が研究しようとすると、最低1週間はロンドンに泊まり、大英博物館に通います。飛行機にも乗るし、かなりの金が落ちます。昆虫標本の他にも、収奪した宝石や文物がたくさんあります。これが実は、ロンドンの集客装置になっています。なおかつ1週間も滞在するので、金がかなり落ちます。
 函館のスケールでは難しいかもしれませんが、何を集客装置にするかは不明でも、札幌くらいなら可能な気がします。函館で可能な例としては、これもイギリスの例で、古本を徹底的に集めた奇人変人がいました。お城に集め、今でもその本を買いに、世界中から人が訪れます。大量の本なので、3・4日はそのまちに滞在し、パブで酒を飲んだりして、本もけっこう買っていきます。過去の遺物を並べて自画自賛していてはダメです。確かに金森倉庫も函館山も立派ですが、これに安座をせず、今のうちから新しいものを作らないと、あっという間にオセロゲームの白が黒になります。繰り返しますが、余裕のあるうちに研究開発投資、あるいは新しい資源開発を忘れてはいけません。水を差すような話ですが、現在を否定するものではなく、老婆心ながら申し上げました。

市岡(コーディネータ−)
 ジャパンパッシングというマクロレベルのお話から、具体的なお話まで、どうも有り難うございました。では、吉岡さん、一言お願いします。

吉岡(パネリスト)
 長岡さんから大変なお話があったので、私はマイルドにいきたいと思います。“一粒で二度おいしい”がこれからのキャッチフレーズになると思います。今までは、観光と市民生活を分けてきましたが、もうその余裕はないですし、函館市には函館駅から南側といういいフィールドがありますから、それを放棄して外部に新しく投資することにはならないと思います。鳴海先生からご指摘があったように、歩いて暮らせるとか、歩いて回れることが大きなキーワードになるでしょう。私は長岡さんよりずっとマイルドで、現在あるものをもっと磨き、暮らしまで全部見せればいいと考えています。施設をいろいろ設けてもうまくいくとは思えないので、皆さん方の暮らしを包み隠さず見てもらう。その中には伝統もあれば文化もある。「思い」もあります。そのためには、人に住んでもらわねばならないし、見せられる態勢になる必要があると思います。交通とまちを一挙に、戦略的にやった方がいいと思います。
 30万人都市で、軌道系の路面電車が5分に1回走っているのは、すごく恵まれていると思います。車両が古かったりするので、もう少しリニューアルする必要がありますが、これもベースになります。西部地区も、人が住んでいるから魅力があるわけで、今のうちに手を打つべきです。交通とまちづくりを一緒に、戦略的にやる。ただ、行政に任せておくとチマチマやるので、戦略的に行うためには、市民からの提案が必要だと思います。せっかくですから、折谷さんと渡邊さんが手を結び、市役所の計画に対抗するくらいの構想書を作らなければだめだと思います。これは絶対欠かせない、これがなければ全部が否定されるというものと、これだけやっておけば函館にいいことがある、この二つの視点を分けて自分で提案していく。
 先ほど、議会と住民参加の問題がありましたが、私はいい緊張関係にあればいいと思います。行政は3・4年で代わるので、継続性がありません。私も痛感していますが、3年経ったら異動があり、そのたびにゼロからのスタートです。市民には持続力があり、行政の縦割りを市民が横につないでいくしかない。また、市民先行、先にやるべきです。行政は公平さが要求されるし、裏づけがないと言えませんが、市民は勝手なことが言えます。その利点を生かし、コンパクトで構わないので、市民側主体でできるだけ早くプランを出してほしい。私は今、札幌でそのように活動していますが、函館でも是非やっていただきたい。
 もう一つ、何をやるにしても掛け金が必要です。お金だけではなく、労力や知恵など方法は色々ですが、北海道では知恵の部分がうまく回っていない気がします。長岡さんは、中国などお金儲けになりそうな例を挙げられました。確かに、観光には“札ビラ”がやって来るという側面もありますが、私の考えは、知恵を持った頭脳がやって来る。いかに人脈や経験、知識をまちづくりに活かしていけるかです。赤平もそうですが、特に小さいまちの場合は、札ビラがやって来るのではなく、まちを手伝ってくれる頭脳がやって来る、あるいは人脈がやってくると考えれば、観光の捉え方も変わってくるし、そこに住民がいないとせっかくのチャンスを取り逃してしまうと思います。

市岡(コーディネータ−)
 有り難うございます。具体的なご提言が入っていたと思います。最後になりましたが、コメンテーターの先生方にも、函館のこれからを中心にご提言をいただきます。

鳴海(コメンテータ−)
 先ほど協働、スモールビジネスというお話がありましたが、関西の方で面白い動きがあるので、ご紹介します。大阪市の東側に、東大阪市があります。幾つかの市が合併した中小企業のまちです。中小企業といっても、なかなかすごい会社がけっこうあります。関西でも人工衛星を打ち上げようという大学の先生の話がきっかけになり、それを本気にして、我々中小企業が連携し、本当に打ち上げようと動き出したグループがあります。ロダン21といいますが、様々な業種が加わっています。人工衛星は大変なお金と技術で打ち上げますが、それを支えることのできるような中小企業は東大阪などにたくさんあります。そういう連中が集まり、いつの日か人工衛星を打ち上げようと、名前まですでに決めているそうで、「まいど1号」というそうです。
 彼らは仲間意識がとても強く、一緒に楽しむことを原点にし、研究を怠らない。研究ができない人は失格で、辞めなければならないほど厳しい。それが今は、ロダン21というグループに、投資したいという銀行などが出てきました。1社ではなかなか受けられませんが、グループに参加しているなら投資したいという動きが出てきています。私は、函館でそれができると思います。ここにはいろいろな産業があるし、すでに基盤があります。役所はもっと他にやることがあるので別として、金森倉庫をはじめ、漁業などとても優れた技術の財産があります。自分がやっている事業で、研究を怠らず努力しようという人たちが集まれば、別の芽が出てくるはずです。次に訪れるときには絶対、函館から新しい産業の芽が生まれていると思います。観光だけではなく、函館にはもっと実力があると思うし、期待したいと思います。

韮澤(コメンテータ−)
 先ほどモンシロチョウのお話が出ました。この蝶はとてもポピュラーですが、最近は、オオモンシロチョウに取り代わってしまっていたという研究発表がありました。周りの人には変わらない風景なのに、いつの間にか種が変わっていたという状況があったそうです。それと同じように、いつも函館には観光客が来て、同じような買い物をし、同じように流れていく。明日も同じと思うのはとんでもないことで、観光客の質が変わっていて、そのうち来なくなる状況がある。これを長岡さんは、かなり強調して言われていたと思います。
 鳴海先生が基調講演の中で、新アテネ憲章の4番目として「都市の魅力は歴史的資産と、それに調和する個性によって形成される」とお話しされました。まさに、函館の今までと、これからを、歴史的資産と個性によって形成されるという視点で、考えていかねばならないと思います。そのためには何が必要か。つまり、まず材料や素材があるかどうか。もう一つは刺激があるかどうか、だと思います。もちろん材料や素材は、函館の歴史的なものなど、目の前に見出すことができるかもしれません。刺激もそこそこあると言われるかもしれません。ただ、それを磨くとすると、函館にいる人たちの、いつも見慣れている視点だけでなく、他の人、他の目から見た新しい発見を教えてもらうなり、時には「そんなことも知らなかったのか」と、突き飛ばしてもらうような刺激も必要だと思います。
 西部地区が空き家や空き地で空洞化され、いろいろな対策がなされていますが、外からの目で見ると、函館というまちの魅力と知名度が高いので、西部地区に是非住みたいという外部からのニーズが非常に高い。それを上手に結びつけ、函館に来て住んでください、1週間でも1ヵ月でも、体験的に住んでみましょう。その中で函館を発見した人たちは、地域の人たちと交流し、大きな刺激を与えて下さい。それによって、地域の人たちが新しい発見をすることで、自分のまちの魅力をさらに磨き上げる力を持つことができます。また、実際に外から来た人たちが住んでくれれば、その時点から、さらに材料や素材を磨き上げることができる。そういう刺激が、これから必要だと思います。それをどう函館のまちに取り込んでいくか。それは行政だけに任せることではなく、我々市民が一人ひとり考えていくべきだと考えながら、本日のパネルディスカッションに参加していました。


市岡(コーディネータ−)
 どうも有り難うございました。本日、パネリストの5名の皆様、2人のコメンテーターの先生方にいろいろお話をいただきました。本日は大変お忙しい中、貴重なお話をいただきどうも有り難うございました。これでパネルディスカッションを終了いたします。


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