基 調 講 演

「イタリアのまちづくり ラヴェンナ市を中心に」

札幌大学文化学部日本語・日本文化学科
助教授 ランベッリ・ファビオ

 ご紹介いただいたランベッリでございます。よろしくお願いいたします。
 本日、この会場にお集まりの方々の中で、都市問題やまちづくりに関して、一番知識がないのは私です。確かに本日のテーマである文化と交流や文化の豊かさを考え、ルネサンスの歴史的なモデルとして現在のまちづくりを考える点では、完全に無関係ではないだろうと思われます。この会議に何らかのかたちで貢献できるとすれば、文化の歴史や文化研究という広い枠組みの中で、まちとは何か、まちづくり・まちの問題はどんなものか、考えられる解決の方策を示せるのではと少し自信を持っています。後ほどのディスカッションで、私の提供できる資料やヒントが本当に役立つか、皆さんのご意見を伺いたいと思います。
 確かにまちづくりという言葉はなかなか訳しづらい言葉です。これは日本語独特の言葉で、日本語の曖昧さを持っている。つまり、文字通り“まちをつくる”という意味ではないですね。それは、まちの活性化だとか、生活の豊かさという意味でしょうが、裏を返せば、まちは活気がないということになります。もちろんそれは日本だけの問題ではなく、世界的広がりのある大問題だと思います。その原因は多分、まち自体の組織や構造だけでなく、最近はグローバリゼーションが話題になっていますが、その傾向もまちの伝統的生活の様式に影響を与えつつあると思います。後に触れるイタリアの場合も、グローバリゼーションのインパクトが少なくないと思います。
 日本とヨーロッパ、特にイタリアのまち、文化の違いを考える際、一般的には非常に抽象的な、ほとんど実体のないレベルから違いを求める傾向があると思います。例えば風土、環境、気候の違い、宗教の違いなどです。しかし、違う場所に本当に住んでみると、こうした抽象的な違いが、さほど重要ではないと言いますか、一般的な日常生活にさほど影響を与えないのです。逆に身体で感じられる違いは、非常に感覚的でシンプルな日常的な違いだと思います。例えば味。イタリアへいけば普通の焼魚ならオリーブオイルとレモンで味付けします。日本では、何らかのかたちでしょう油が入ります。それでもいいのですが、あるレベルで一番困る違いです。しょう油やオリーブオイルが嫌いだったら、それが食べられないですね。
 しかし、逆に言えば、少し慣れれば味の感覚が2倍になります。違いは障害物ではなく、潜在的な一つの豊かさの可能性だと思います。イタリアのまちの構造やまちづくりで、一番目立っているのはいろいろな意味での豊かさ、違いの共存です。違いを共存させることは難しいことです。違いは対立を招くが、逆に対立を乗り越えることによって、豊かさが生まれてくる。その豊かさは経済的なものだけでなく、生活上での豊かさであることが分かります。
 日常的、感覚的な違いとして、非常に簡単な例として味を挙げましたが、もう一つ非常に目立つのは、私も初めて日本に来た時にそうだったのですが、身体で感じるのはまちの構造「まちづくり」です。日本やアメリカは、どこも同じに見えます。特にアメリカは、30〜40年代から始まる動きで、日本の場合は戦後ほとんどみんな同じパターン、同じルール、同じ基準でまちが再建されたと思います。そうすると歴史的地域、つまりまちの違いを保障していた部分が少なくなってきている気がしました。イタリアの場合、郊外はみな似ているかもしれませんが、まちの中心地は他国に比べて小さくないし、一つのモニュメント、特別な地区のようなものではなく、人が歴史的建物の中に暮らしています。これは印象的で表面的かもしれませんが、大きなインパクトのある違いかもしれません。
 イタリアの伝統的なまちづくりは、皆さんご存知だと思いますが、必ずまちの真ん中にピアッツア「広場」があります。小さいまちなら広場は一つしかありませんが、少し大きいまちになると幾つか作られます。広場とはただの“広い場”ではなく、そのまちの人々にとって非常に重要な生きる空間です。そこへ行って人に会ったり、待ち合わせをしたり、きれいな服でかっこうをつけて人に見せたり、食事をしたり市場を開いたり、日常生活では非常に重要な空間です。他の人たちとの交流の場所です。ピアッツアに出るには、車だけではなく歩いて行ったり、交通機関も利用します。人が歩いて、つまり身体で広場を使うという点が日本やアメリカで感じた一番の違いです。広場がない。時々はふれあいの広場などと出てきますが、私たちから見ると、ただの広い空間で、ほとんど何もない、かなり冷たい空間です。つまり、生きた空間ではないのです。
 もう一つ気がつくのは、日本のまちの中でぶらぶらと散歩する人は、比較的少ないのです。イタリアなら30分や1時間でも時間があれば、まちの中を散歩し、ウインドウショッピングしたり人にも会ったりします。日本では、散歩するのは道ではなく、デパートが代わりにその機能を果たすようになっています。これはわりと新しい現象です。デパートが発生するのは明治初期ですし、非常に重要になるのは昭和初期、そして特に戦後のことです。明治時代までは、日本のまちは、現在のイタリアのまちとさほど違わなかったかもしれません。それはイタリアの近代化と、日本の近代化という偉大なプロセスが、違う道を選んだからかもしれません。結果として、それぞれの問題を抱えていると思います。いずれにしても、ピアッツアは建築学的にだけでなく、人の生活、命にとって中心的で重要な交流の場です。
 ピアッツアには身体的、日常的な意味だけでなく、もちろん象徴的な意味があります。ピアッツアの中には必ず教会があり、聖なるものと接触できる場所です。そして市役所、警察署、つまり国家機関の権力の施設があります。普通の人々は、広場に出ると他の市民とも会うし、自分をその中に位置づけることができると同時に個人の次元を超越する。例えば国家のレベルや聖なるものとの接触も可能になります。ですから広場は非常に中心的な場なのです。
 イタリアのまちを歩くと、ピアッツアにまず気づきますが、いろいろな人が歩いています。暇だからと批判を受けるかもしれませんが、それだけでなく、時間があればまちを歩くのが好きな人が多いということです。まちを歩けばいろいろな建物や歴史的なものが、展示されているのではなく、昔からずっとそこにあります。先に触れたように歴史的な建物、文化的遺産がただの観光スポットではなく、多くの場合人がそこに住んでいます。もちろん教会などは別ですが、イタリアのまちの建物は、ローマ時代や中世1200〜1300年代にできたものや、1500〜1800年代にできたものですが、今でも普通のアパートとして、あるいは普通のオフィスとして使われています。
 そうすると、イタリアのまちに住んでいる一般人の、歴史に対する態度が違うと思います。つまり歴史とは、学校で勉強するものだけではなく、例えば北海道から見れば京都や奈良にあるようなものではなく、場合によっては住んでる場所に歴史がある。意識しなくても身体で感じることが多いと思います。歴史は売るもの、つまり観光のためにあるのではなく、生活の重要な一部なので、まちそのものに対しての個人個人の態度が違ってくるかもしれません。つまり歴史というのは、私には関係ない、試験があるから勉強しなければならないものではなく、私は今、歴史の中に暮らしている、歴史という空間の中に生きていることを感じるでしょう。まちに関してはこれらが一番感じる違いだと思います。
 次に「文化」という概念について、考えなければなりません。私は文化学部に所属していることもありますが、特に日本では、何でも「文化」になってしまう気がします。その善し悪しは別として、「文化」という概念の提起が「文化」を考える上で非常に重要な問題だと思います。私は、文化には基本的に二つの解釈があると思います。一つは、高度な知的遺産としての文化で、例えば京都の寺院や博物館、美術館など。もう一つは、一般の人たちの生活環境全体です。この二つの違う考え方に基づいて、まちづくりを興そうとすれば、その結果がだいぶ異なってくると思います。歴史的な遺産を重視するのか、一般の人たちの生活を重視するのかという立場で結果がかなり違います。これは、「文化」とは過去、伝統のことなのか、あるいは現在、将来のことなのかという問題になります。
 いろいろな考え方があると思いますが、私は文化学部で教える際、「文化」という言葉を非常に慎重に使います。そうしないと何でも「文化」になるし、「文化」の意味が失われてしまう恐れがあるので、慎重に使うべきだと思います。
 さて、今日のメインの話に入りたいと思います。まず、ラヴェンナにいらした方も多いでしょうが、そうでない方のためにラヴェンナについて簡単に紹介し、映像をお見せしたいと思います。
 写真は観光パンフレットになる恐れがあるので、私と妻が一緒に歩きながらビデオを撮り、平日の午後、生きたまちの生活をお見せしたいと思います。素人が撮ったものなので、見づらい部分もあると思いますがお許しください。映像を見ながらコメントを加え、最後に、今ラヴェンナのまちづくりの特徴と抱えている重要な問題についてお話します。
 まずラヴェンナは、世界史で思い出があるかもしれませんが、ローマより古いまちだと言われています。ローマがつくられたのは紀元前750年ごろでラヴェンナはもう少し前だそうです。しかし、ラヴェンナが非常に重要になるのはローマ帝国の後期の時代で、ラヴェンナの近くにローマの地中海海軍の大きな基地の一つがあったようです。今、その遺跡が発掘されていますが、軍事的にも非常に重要な基地であり、アドリア海に面しているので、イタリア半島と地中海の交流の重要な場にもなっていました。そしてイタリア半島とアルプスそしてアルプス以北の地域との交流の場でもありました。この歴史が、今でもある程度生きています。
 ラヴェンナの歴史の中で一番重要な出来事は、西ローマ帝国の晩年に遷都が行われたことでした。ローマからミラノに遷都され、最終的にはミラノからローマ皇帝がラヴェンナに移りました。それが460年、西ローマ帝国が滅びる直前です。一時期、ラヴェンナには西ローマ帝国の皇帝がいました。ローマ帝国が滅びてから、北から様々なゲルマン系の部族・民族が入ってきます。彼らは王国を設立しますが、ゴート人の豪族がラヴェンナをゴート王国の首都としました。特に、ゴート人のテオデリッヒ王の宮殿がラヴェンナにあり、彼の廟は今も残っています。そしてビザンチン、つまり東ローマ帝国と非常に深い交流があり、6世紀からラヴェンナとその地方がビザンチンの直轄になります。その遺跡が、現在の教会の中にも残っており、最も有名な芸術作品としてモザイクがあります。一番古いのは560年代にできたもので、東ローマ帝国のユスティニアヌス皇帝とテオドーラ皇后の素晴らしいモザイクが、サンビターレ教会に今でも残っています。モザイクはガラスなのに服や身体の動きが見えるようで素晴らしい芸術だと思います。
 その後、ラヴェンナは次第に衰退し、位置的に重要な出来事はあまりありませんが、
1300年代には、イタリアで最高の詩人と言われている『神曲』のダンテがラヴェンナで亡くなりました。フィレンツェ・サンタクロチェ教会にダンテのお墓がありますが、中には何も入っていません。本当のお墓はラヴェンナにあります。フィレンツェからの度重なる依頼も断り、ダンテはラヴェンナの重要な歴史の一部です。
 ラヴェンナは1800〜1900年代までは普通の田舎町でした。1950年代には、ラヴェンナの港の近くに化学工場の大きなコンビナートができます。特に石油加工を中心とした大規模な工場で、それがまちに経済的な豊かさをもたらしたけれど、環境破壊につながる問題も少なくありません。世界的にもそうですが、化学工場の経済力が次第に乏しくなり、今はほとんど使われていません。幾つかの先端技術の小さい工場は存在していますが、一番大きな石油の加工施設が撤去され、骸骨のような部分しか残っていないので、都市計画の失敗例を研究する方が行けば、興味深いと思います。ヴィスコンティの有名な映画「赤い砂漠」に、その映像が使われています。
 そして不思議なのは、この工場が大自然の中にぽんと置かれていることです。車で何キロも走って、松林と沢地で人がいない場所にいきなり巨大な工場が現れてきて、ここはどこかと思わされます。またその道を2〜3km走るとリゾート地に着きます。非常に不思議な世界です。工業地帯から南に2kmほどにラヴェンナがあり、非常にコントラストが大きい文化環境です。ラヴェンナの人たちは、その中で生まれ育っています。
 具体的なデータとして、ラヴェンナ市の人口は約14万人です。説明する必要があるのは、日本の自治体には県、市、郡、町、村と様々なレベルがあるようですが、イタリアにはまず州があります。その州の中に幾つかの県があり、県の中に市という自治体しかありません。例えばローマのように400万人の市があれば、1,500人の市もありますから、まちづくりの問題もかなり異なってくると思いますが、根本的な考え方が800人の市でも独立しています。ラヴェンナ市自体は14万人ですが、ラヴェンナというまちの人口は約8万人で、さほど大きな規模ではありません。イタリアは都会というものがほとんどないのです。ローマとミラノ以外は50〜30万で、10〜20万のまちが圧倒的に多くあります。そしてその下にもっと小さいまちがたくさんあります。多くの場合、何百年という歴史を持っており、その歴史的な建物や伝統が小さいまちにもきちんと残っています。規模が違えば問題も違いますが、まちに対する考え方は同じかもしれません。これも一つの留意点と言えると思います。
 ラヴェンナを選んだ第1の理由は、私が生まれて育ち、一番よく知っているまちだからですが、ラヴェンナについて偉そうなことを言うつもりはありません。統計や世論調査に基づき、住みやすさや経済力などイタリアの県のランキングが行われています。ラヴェンナはベスト10に入ったことはないと思います。しかし、ワースト10・20にも入ったことがありません。イタリアの県は約100なので、ベスト30・40くらい、中から上のランクでしょう。ケーススタディとしては、非常に参考になるかもしれません。つまり、ベストやワーストだったら学びにくい面がありますが、中ぐらいのランキングならよい面・悪い面で参考になるのではないかと思ってラヴェンナを選びました。
 これからは映像をお願いします。ラヴェンナはアドリア海に面し、ベネツィアとフィレンツェから約150キロのところにあります。一番近い国際空港はボローニアにあり、ここがラヴェンナの属するエミーリア・ロマニア州の首都でもあります。ラヴェンナの下にチェゼーナやリーミニという同規模のまちがありますが、リーミニはラヴェンナから50キロほどで、ヨーロッパの中で最も有名なリゾート地の一つです。ビーチや様々な観光施設があり、スペインのリゾートの次に、毎年何百万人も、ヨーロッパ全土から休みを過ごしに来ます。観光客はリーミニへ行き、日帰りや1泊でラヴェンナを訪れることが多いのです。
 次にラヴェンナ県の地図です。その県の中に、18の市が属しています。ラヴェンナは海から12キロほど離れており、先述したように、ローマ時代に海軍の基地がありました。今は大陸の真ん中ですが、ラヴェンナはその時代、現在のベネツィアと同様の状況でした。ラヴェンナの周りは全部海で、まちが島のようになっていたようです。現在、一番古い建物の基礎を発掘すると、ベネツィアと同様な杭の使用法が分かります。ベネツィアが700年代につくられた際、ラヴェンナの建築技術を借りて建設されたと言われています。今でもベネツィアのような環境、景色が残っており、沢地や淡水と海水が混じった地域がたくさんあります。面白い自然環境です。
 ラヴェンナ市の地域は660平方キロで相当広いです。ラヴェンナ市の中には様々な小さい村がありますが、特にマリナロメア、マリナディラベンナなどの村々はリゾート地です。きれいな海岸があり、観光客がたくさん来ます。ラヴェンナから北の方に沢地があり、先程の工業地帯は、ラヴェンナと海の中間点くらい沢地の真ん中にあります。ラヴェンナの港には、1700年代に約12キロの運河がつくられ、ラヴェンナ駅の裏まで通じています。あとは市の土地はすべて農業地帯です。かなり豊かで、麦を始めとして野菜、果物、ほとんど何でも作れます。
 この地図はラヴェンナの中心地です。ここが一番歴史的な地域で、まちの城壁はよく残っています。まちの中は、車がほとんど通れず、1969年から歩行者天国になっており、イタリアでも早い方です。航空写真で見ると、イタリアの特徴として屋根も赤いし、レンガ造りのため赤く見えます。
 1500年代に城だった史跡が、市民の公園になっています。その城壁に囲まれた一部が、映画祭や音楽祭、有名なジャズフェスティバルなど文化的活動に使われています。たいへん安く、椅子を持って来てステージを作り、パフォーマンスなどが行われます。国際的なアーティストもたくさん来ます。
 サン・フランチェスコ教会の前広場では、コンサートが行われます。ラヴェンナでは、10年前からラヴェンナ音楽祭という国際フェスティバルが行われていますが、その一環として、ラヴェンナの様々な場を借りて開催されます。劇場はもちろん、まちの空間を生かして催されます。広場でクラシック音楽を演奏すると音質は良くないでしょうが、有名な作品、作曲家、指揮者に接触できるのも一つの楽しみだと思います。劇場にはこれほど大勢のお客は入れないし、大きな劇場の建設はお金の無駄になります。すでに存在している施設をうまく利用し、非常に活発な文化的活動をしています。
 ラヴェンナの市庁舎は1500年代の建物で、一般の人たちはその前にある広場で友達に会い話をします。サンヴィタレ教会は6世紀のもので、ユネスコの世界文化遺産に指定されたモザイクがあります。ユスティニアヌス皇帝のテオドーラ皇后がこのモザイクのモデルです。ガッラプラチーディアのモザイクも世界文化遺産で、キリストを描いたものです。ラヴェンナでは初期のキリスト教の作品が多いのですが、十字架やクリスマスの絵はほとんどありません。復活祭ばかりです。多分、初期のキリスト教徒にとっては、クリスマスより復活祭の方に宗教的意義があったのでしょう。
 これはラヴェンナの海岸です。広いビーチできれいな砂浜ですが、平日はさほど混んでいないので、楽しいひとときを過ごせます。毎朝、市の施設がビーチを清掃します。海岸方面には松林があり、様々なスポーツなどが行われています。
 次に、同じラヴェンナ県のファエンツァ市をお見せします。城壁が残っており、歴史的な地域です。ファエンツァで有名なのは、陶器・陶芸です。ルネサンスの時代から行われている伝統的な産業ですが、ファエンツァはそれをまちのシンボルとして、陶芸博物館と陶芸研究開発センターのほか様々な中小企業があります。芸術的な作品を作る工房もあれば、例えばタイルなど工業的な産業もあります。
 ラヴェンナ県ブリジゲッラ市は、山にある人口8,000人の小さいまちですが、中世の城が残っています。6月には3週間にわたって、まち全体が中世のまちになるというフェスティバルが行われます。例えば、京都の時代まつりのような一時的なイベントではなく、3週間にわたって、様々なパフォーマンスがあり、人々は中世らしい服を着てお客さんを呼びます。ブリジゲッラのレストランでは、中世の料理を出します。中世にはパスタやピッツァ、トマトソースがなかったし、砂糖の代わりは蜂蜜でしたから、私たちも想像できないような料理がたくさん出ます。
 ラヴェンナ県チェルヴィア市は海に面した、人口3万人の有名な観光地です。ここにも古い建物が残っており、伝統的な漁業を行っています。
 スライドだけではイメージがつくりにくいので、短時間ですがビデオをお願いします。散歩しながらのものと、車中から撮ったものです。城壁がまちの門で、全部石畳になっています。通れないので車はなく、ゆっくり歩く人や、自転車が多く見られます。中心地にはいろいろな店があるので、物を運搬する車は特別に許可を得ています。昔は車が通っていましたが、道は狭いし、今の我々には信じられないことです。私が子供だった69年、「車が通れなくなると客が減る」と商店経営者は強く反発したのですが、逆にすごく栄えました。30年前は考えられなかったけれど、通りに面した建物は、ほとんど店になっています。雨の日など自転車では濡れてしまうし、車で行けないのは不便な面もありますが、小さな犠牲によって非常に豊かな生活環境を可能にしています。石畳は時々修復されますが基本的には古いままです。この店の中に5世紀の遺跡が残っていたりしますが、法律で維持しなければならないので、店の一部として使われています。観光はラヴェンナにとって一つの重要な産業です。
 ラヴェンナのまちづくりの課題は幾つかありますが、最も重要なのは交通です。イタリアのまちはどこもかなり古いので、車のためにつくられていません。車は非常に増加しており、日本より多いです。排気ガスによる公害が重大な問題になっており、ラヴェンナでは、車の使用を規制する時もありますから、そのときは自転車やバスを使う他ありません。ラヴェンナ市が取り組んでいるのは、まちの中心地を車禁止にし、周辺道路をできるだけ走りやすくしていますが、基本的には車を少なくすることで、非常に難しい課題です。まちがさほど大きくないので、バスが少ない。私が子供のときはもっと多く、15分おきにありましたが、今は約30分に1本しかありません。バスはあまり利用したくない、それならどうするか非常に大きな問題です。
 もう一つは観光の問題です。ラヴェンナには大きなホテルがありません。例えば、日本からのパッケージツアーの人々がラヴェンナに寄りますが、泊まらずにヴェネツィア、フィレンツェへ行ってしまいます。つまり、大きな団体がラヴェンナには泊まれないからです。しかし裏返せば、団体ツアーなら自由行動がなかなかできませんが、観光客が余裕をもって訪れ、好きなレストランや買い物などが自由にできます。イタリア人は特に団体ツアーが嫌いだし、ヨーロッパ人もそうです。最近、日本人もそうなっているようで、初めてツアーで来て気に入れば、必ずラヴェンナに宿泊する人が増えてきました。団体観光がないので、標準化されたレストランなどがあまりありません。外国人から見れば似ているかもしれませんが、地元の人なら判別できます。どこも同じ物を出すのではなく、違ったものを出そうと競争します。営業の中で差別化を図ることもまちの一つの活気、活性化になると思います。大衆観光とセレクト観光の対立もありますが、現状ではセレクト観光のような観光客が多いのです。
 もう一つの悪い面は、団体が多く来ると、そこに住んでいる人たちは非常に困ります。混雑してまちを歩けなくなるとか、物価が上がります。フィレンツェやベネツィアなどは、観光客が余りに多すぎて、イタリアの中でも住みにくいまちになっています。ラヴェンナのような中途半端な観光地なら住みやすさも維持でき、観光客も満足させることができます。リゾート地に近いので、1泊しなくても2〜3時間見て帰ることもできます。
 イタリアの経済を支えるのは、まさに中小企業です。日本の中小企業との大きな違いは、下請けが少ないことです。逆に中小企業が非常に精密で限られた分野で活躍しています。例えば、ラヴェンナから16キロにあるルッシ市は1万5000人ですが、電車で通るとトラクターなどの農業機材の駐車場が見えます。世界の市場の数%占める生産力を持っていますが、一般人はそれを知らないので、イタリアは産業がない、服飾だけと思ってしまいます。服も中小企業の一つの側面ですが、技術や機械も同様にビジネスを行うので、その地域の活性化に非常に貢献しています。
 例えば、先日、札幌にも支店ができたベネトンは世界的な有名なブランドですが、本社がローマやミラノではなく、ベネト州トレヴィゾ県にある5,600人のまちにあります。日本では少し大きくなるとすぐ東京へ行ってしまいます。ベネトンはその小さい村に大きく貢献しています。ラヴェンナの中小企業も同様です。これも生活環境の特徴として、まちづくりに深い関わりがあると思います。
 文化の側面では、世界文化遺産が5・6ヵ所ありますし、先に触れたように、国際的なジャズフェスティバルや音楽祭など様々なイベントがあります。私が重要だと思うのは、一時的なイベントで観光客を楽しませるのではなく、一般市民のために考えなければならない。ラヴェンナの地域には、レベルの高いイベントがたくさんあり、他から来るお客も多いのですが、中心となるのはラヴェンナ市民です。地域と密接な関係を考えながら活動を行うことが大切です。先ほどの地図に載っていた様々な小さい村や町のそれぞれに様々な文化的なイベントがあります。国際的なレベルのイベントもあるので、市民のメリットにもなり、観光客にも魅力的です。多目的な考えはイタリアの発想なのかもしれません。
 ただ一番大きな問題は、財政の問題です。イタリアは今年からリラを捨ててユーロの加盟国になりました。そのためには、ヨーロッパ連合が決めた非常に厳しい財政的な基準を満たさなければなりませんでした。税金が高くなり公共施設に投資できなくなった結果があります。私が初めて日本に来た時、田舎にも素晴らしいコンサートホールや美術館、芸術施設があり、すごく羨ましく思いました。イタリアの博物館は、収蔵品を公開する場所がなく、保管されているもののごく一部しか見られません。日本に来ると、どこに行っても素晴らしい美術館がありますが、入館してみると作品が30点とか、ポスターだとか…。
 イタリアは、そのようなことは財政的に不可能なので、すでに存在している施設をできるだけ有効に使います。音楽なら場合によってはよく聴こえないし、理想的な状況ではありませんが、国民の将来、その孫の税金を高くするより、現存の施設を有効利用し、いい文化政策を行うことが方針だと思います。もちろん、財政的な問題からやりたいことができなくなっている状況もあります。
 冒頭に申し上げたように、グローバリゼーションの影響が深刻になりつつあります。イタリアはEUの加盟国として、イタリア国家が独自に決められる法律が非常に少ないです。EUの決めた基準に従わねばなりません。そうすると私たち一般国民が知らないレベルで、イタリアではなく違うところで皆と一緒に相談しながら決められることが多くあります。ある意味ではいい結果です。つまり、まちの人々や経営者が、国家のレベルだけでなく、本当の意味で国際的・多文化的なレベルで考えるようになりつつあります。まちのニーズだけでなく、あるいは国家の伝統だけでなく、ヨーロッパという国際的な次元で考えねばならない時代になりました。私は非常にいいことだと思いますが、多文化主義、多国籍主義には非常に大きな問題もあります。
 例えば、外国から様々な人が入ってくると、異なる文化ではまちの使い方、生き方が違います。まちはどういう態度をとるべきでしょうか。何を禁止しなければならないのか、我々が気に入らない態度でも、ある程度寛容に受入れなければならないのか。これは非常に深刻な問題だと思います。もう一つは、出稼ぎに来るわけで、家族と子供を伴って来ます。ラヴェンナも例外ではなく、小学校によっては子供の半分がイタリア語が話せないし、共通語がない。例えば、イタリア人半分と中国人が半分なら何とかなりますが、イタリア人半分の他にルーマニア、セネガル、フィリピン、中国、ポーランドなど様々な国から来ている子供たちがいます。この場合どうすればいいでしょう。
 ですから、グローバリゼーションは文化の交流の面でたいへん良い面もありますが、うまく管理できないと非常に危険をはらんでいます。排他的で人種差別的な態度が現れつつあります。ラヴェンナでは治安の問題もほとんどないし、非常に穏やかなまちで、かなり寛容だと思います。最近、イスラム教のモスクもできました。私としては、グローバリゼーションの中で、ヨーロッパ化は非常にいいことだと思いますが、それとうまく直面するためには、地域や国家レベルではなく、違うレベルで考えねばならないと思います。日本も特に北海道も世界の時代になったのではないかと思います。以上でお話を終わります。


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