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パネルディスカッション
★話題提供「金沢市民芸術村の紹介」
金沢工業大学建築学科教授 水 野 一 郎 ★話題提供「歴史的遺産を活かしたまちづくり」 (株)アレフ代表取締役社長 庄 司 昭 夫 ★話題提供「北海道のワイン産地としての可能性」 北海道ワイン(株)代表取締役副社長 蔦 村 公 宏 ★話題提供「『雪あかりの路』を通して」 (株)ウィンケル代表取締役社長 米 花 正 浩 ★話題提供「演奏活動で見た海外のまち並み」 ピアニスト 中 川 和 子 ◆コーディネーター 北海道都市学会理事 (有)インタラクション研究所代表 安 田 睦 子 ▼コメンテーター 札幌大学大学院経営学研究科 教授 千 葉 博 正 ▼コメンテーター 小樽商科大学商学部経済学科 教授 船 津 秀 樹 ▼コメンテーター 札幌大学文化学部日本語・日本文化学科 助教授 ランベッリ・ファビオ |
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司 会 5名のパネリストの皆さんによるパネルディスカッションに入ります。 まず、パネリストの皆さんをご紹介いたします。 金沢工業大学教授であり、石川県を中心に数多くの施設を手がけた建築家でもいらっしゃいます水野一郎様です。 次に、多くの観光客で賑わう小樽運河沿いの石造り倉庫を利用したレストランなどを展開されるとともに、食の安全性や環境問題にも精力的に取り組んでおられます株式会社アレフ代表取締役社長 庄司昭夫様です。 続いて、ワイン製造のため、ドイツで研鑚された経験をお持ちで、国産ワインの品質向上に日夜研究を重ねられております株式会社北海道ワイン代表取締役副社長 嶌村公宏様です。 次に、本業のペンション経営の傍ら、小樽の冬のイベントで、小樽ゆかりの作家伊藤整にちなんだ「小樽雪あかりの路」や地元の朝里川温泉郷の活性化に奔走されております株式会社ウィンケル代表取締役社長 米花正浩様です。 次に、ドイツやスイスなどで国内外の数多くの演奏家と共演される一方、「小樽国際音楽祭」創設当時から運営に携わっておられます中川和子様です。 このパネルディスカッションのコーディネーターを務めますのは、北海道都市学会理事の安田睦子です。 安田(コーディネーター) 前半はファビオ先生のイタリアのお話でしたが、イタリアでも行政予算が不足し、あるものをうまく活用し、まちづくりをしています。現存のものに素晴らしいものが多く、映像を見ながら驚いていたところです。後半は日本に移り、「まちづくりのルネサンス〜交流と文化、そして豊かさ〜」を実際にどのように進めていくのかを話し合いたいと思います。 まちづくりも今は単なる住民参加ではなく、地域経営の時代に入ってきています。地域にある様々な資源、例えばインフラ、建物、人材、資金、ノウハウ、地縁、さらには自然環境である山や川、空気、またはきれいな水、それから伝統文化や生活文化などをうまく活用し、地域の暮らしを経済的にも文化的にも豊かにしていこう、そういう時代に入ってきていると思います。ただ、その地域資源については、地元に住んでいると意外に見過ごしたり、全く価値が見出せなかったりすることもあります。どういうことで気づかされるかといえば、外からの目だったり、全く違う人たちとの交流であることが多くあります。 交流というものも、全く違う空間、地域、よその国だったり、隣りのまちだったり、日本国内でも端と端だったりします。人との交流は、異業種、世代間などがあります。また、先ほどのファビオ先生のお話を聞いて強く感じたのは、時の交流、時代を越えた交流として、歴史から学ぶととか、歴史から気づかされる交流もあるのではないかと思います。かつて、日本とヨーロッパの文化は、シルクロードを通して刺激を受け合い、それぞれ独自の文化が築かれてきたという面もあります。場所は小樽ですが、前半はイタリア、後半は日本に移り、パネラーの皆様には金沢から来られた先生もおられますし、地元の方もおられます。会場の皆様は、北海道各地から参加されているとお聞きしています。様々な具体的な事例を参考に意見交換しながら進めていきたいと思います。 ではまず始めに、金沢からいらっしゃった金沢工大の水野先生にお願いいたします。水野先生は、歴史的遺産でもあり産業遺産でもあるレンガでできた工場を使って金沢市民芸術村を計画され、実際に市民とともに芸術創造空間をつくり上げてこられました。この施設自体が市民の利用者本位につくられており、従来の公共施設の概念を越えた使い方をしています。施設自体がグッドデザイン大賞、建築学会作品選奨を受賞されています。そういった活動と今までの経緯をご紹介していただきます。 「金沢市民芸術村の紹介」 金沢工業大学建築学科教授 水 野 一 郎 この北海道都市問題会議に参加されている皆様には、たいへん熱気があるので、少し圧倒されています。負けずに頑張っていきたいと思います。 日本が明治維新以降伸ばしてきた産業は、繊維産業でした。産業革命が起こり、繊維を中心に様々な産業が興りました。石川県では工業出荷額の8割が繊維と繊維を作る機械が主産業でした。それが次第に韓国、台湾、香港に追いつかれ、追い越され、タイ、マレーシアそして中国やバングラデシュが進出すると国内で繊維産業をしていられなくなり、日本全国あちこちで土地が手放されてきました。ほとんどの都市においても、倉敷のアイビースクエアや先日福岡にできた巨大なショッピングセンターのように、都心近くにあって繊維産業の跡地がもう一度都市の活性化に役立っている事例があると思います。金沢での一つの事例をお話したいと思います。 敷地は4ヘクタールほどでしょうか、かなり広く、それを市が買ったのですが、工場はすでに壊されており、その敷地の片隅に倉庫が5棟並んでいました。その倉庫も解体する予定でしたが、市長が敷地を視察した際、たまたま倉庫の中を覗いたところ、たいへんきれいだった。それで急遽市役所へ戻り、1週間後に壊すという計画を取り止め検討に入りました。市長が友人である五木寛之さんや劇団雲の人、浅利慶太さんなどに相談したところ、残した方がいいという意見が出ました。そして私どもが呼ばれ、どのように残すか検討を始めました。 最初にどんな建物かお見せします。とても保存など考えられない建物でした。図面も何もないので、測量を行い図面をおこしてみました。内部のインテリアは柱に鉄のカバーがしてありますが、荷物をフォークリフトなどで運ぶ際、ぶつかって壊さないためです。このインテリアがきれいでした。私も見た時に、「市長さん、このインテリアはものすごくいいですね」とお話しました。外は非常に汚かったのですが、インテリアのよさが最後まで楽しいストーリーを創造することになります。 竣工した姿です。最初はモルタルが塗ってあり、それをはがしてレンガを出したり、鉄筋コンクリートのものもあったので、レンガタイルを貼ったりしてレンガ調に仕上げてあります。 私はまず、市長だけでなく誰でもいいのですが、「これはいいな」と思える感性を持っている人が、その土地に必要であると感じます。その人が声を上げたことが非常に大きな力になっていくわけです。すぐ私を含めた企画委員会がつくられ、金沢に何が必要か考えたとき、金沢の伝統的なもの、例えば謡や小唄、端唄、清元、日本舞踊、お茶、お華などの文化は、施設もしっかりありますが、若者がつくる文化、今から生まれ出んとする文化、金沢が持っていない文化、そういったものを育てようと考えました。持っていないということが一つのきっかけでありました。それで演劇、ジャズ、ロックあるいはコンテンポラリーアートなどを中心とし、市民が使うものをつくろうと考えたわけです。 企画委員会でアート工房、ミュージック工房、ドラマ工房、エコライフ工房をつくり、365日休みなし、正月もお盆も使用する。24時間使用でき低料金としました。その建物の管理は、365日、24時間使うと言った以上、市役所にはできるはずがない。皆、使用者が管理する自主管理方式とし、運営プログラムは、民間ディレクターが作る自主運営方式を提案しました。私どもは普段いろいろな諮問を出したり、審議会や懇話会をつくって議論しますが、そんな理想的なことを言ったら、市からはだいたい6掛けか7掛けで返ってきます。ところが市役所から、その条件を100%受けるという答が返ってきました。企画委員会は本当にびっくりして、「大丈夫か。言っちゃったけど、どうするんだ」と、早速いろいろなディレクターを集めディレクター会議を開きました。 例えばドラマなら、市民の劇団を数えると25くらいはあるだろう。ロックバンドやジャズバンドは100はあるだろうといいます。それなら充分、クラブ活動としてやっていける。大学にはクラブ活動の部室があったり、発表や練習の場がありますが、市民の文化活動に対しては、練習や発表の場がほとんどありません。それに使用するにはちょうどいいと、プログラムを進めていきました。どんな建築をつくるかという時にも、ディレクターたちと一緒につくることになり、例えばドラマ工房は、演劇をする空間、練習する空間、もちろん観客席も必要だし、大道具も作らねばならない。照明や音響、幕も必要です。ところがドラマ工房のディレクターたちは、「先生、これは絶対何もいじるのは止めようよ。このままでいい」。ではどうするのか聞くと「舞台も観客席も自分たちでつくる」と言います。照明もバトンさえたくさん下ろしておいてくれれば自分たちで吊り下げる。全部自分たちでやるから自由にさせてくれという要求でした。 ミュージック工房もアート工房も同様でした。そうすると市役所の方は、次第に心配になってきます。本当に全部手放していいのか、自由にさせていいのかと不安が出るのですが、市長が最後に「金は出すが、文化に口は出さない」ときっぱり言い切ったので、ほとんど雑音が消えました。 ばらばらにある倉庫を結んでいる道ですが、雪が降ると、繊維工場にもともとあった井戸を使った池に落ちます。真ん中の建物はフリースペースであり、ここは誰でもいつでも入れる24時間オープンな場所です。その水の上に舞台をつくりました。その水面をお華の学生たちが造形してしまいました。毎年、大晦日から正月まで、徹夜のコンサートが開かれています。ほかに里中真智子さんによるトークショー、市民の演劇、コンテンポラリーアート、高校の先生と生徒たちや地元作家による展覧会など多彩です。オープンスペースでは、子供たちによる製作活動も行われます。 このように始めたのですが、落書きも一つもないし、破損も盗難もありません。自分たちの場ということを自覚したとたん、きれいに掃除して帰りますし、一切のトラブルがなくなることが分かりました。そこで市役所の人もやっと胸をなで下ろしました。グッドデザイン大賞は、建築だけでなく、関係性のデザインに対しての受賞でした。要するに、人間と社会、行政と市民、文化と市民クラブ、そうしたいろいろな関係が成立している。行政がどんな文化活動をすべきか、市民がどうすべきか、あるいは、住民参加とはどういうことか、それらを含めたあらゆる関係性が、面白いデザインであり、21世紀にたいへん参考になるという評価を受けたわけです。 以上です。 安田(コーディネーター) 有り難うございます。私はグッドデザイン賞をかたちで受賞されたのだと思っていましたが、関係性のデザインという仕組みの方も表彰されたわけですね。印象に残ったのは、「金は出すが、文化に口は出さない」と言ってくれる市長がいるというのも、うらやましく聞きました。 では次に、アレフの庄司さんにお願いします。水野先生は、行政が中心となって歴史的遺産である倉庫を利用した活動でした。庄司さんは、民間企業として倉庫を活かした事業に取り組んでおられます。ただ、決断の際には非常に大きな度胸が必要であったと思います。経営者側、民間企業者として、歴史的建造物を使用したケースをご紹介ください。 「歴史的遺産を活かしたまちづくり」 株式会社アレフ代表取締役社長 庄 司 昭 夫 外食はいつも競争ばかりです。ただ、私の解釈する競争とは、相手をやっつける競争というよりお客様にとっての“役立ち競争”です。どちらが役に立つかの競争で、違いをどのように出せるか、自分のオリジナリティをどう出せるかが、お客様に対する非常に大切な価値になってきます。その意味で、古い建物はそれ自体が個性を持っています。新しいものは、お金さえあれば誰でも作れるし、同じようになる。かつてサッポロビールがたいへん古い建物を使っておられ、途中で改装した際、少し新しい部分が増えて、もったいないなあと思いました。お金をかけてできるものは、資本の論理になってしまいますが、古いものは、時間力が付加されていると思います。 その中で、細川政権の時、地ビールの規制が緩和され、それが最も合う場所を求めたところ、小樽が挙がったわけです。しかし、歴史的建造物は自分たちの所有物ではなく、全国から観光客が来ているわけですから、運河沿いから見た時、あまり打算的で、ものを売る姿勢ばかり見えてはいけないと、看板などをつけないようにしよう、窓はいつでも開けておくけれど、求められればいつでも閉めますという考え方で始まりました。 様々な業種、業態によって、仕事をする環境は違うと思いますが、私共の様に全国に店舗を展開している中から見ると、小樽の力は八分目のような気がします。地元の人を前提にするか、観光客を前提にするかで、だいぶ方向が違ってくるわけです。観光客を前提にする中で、立地がどんどん移っていく。小樽自体が、その意味で大きな変わり目にさしかかっており、新しいものがどんどんできています。小樽は、2代目、3代目の息子さんたちが帰って来て、自分たちの力で古いものを活かして何かやろうという動きが起きてきやすいまちです。困った点にも触れると、例えばマイカルができると、核が多少引きずられる状況があります。はて、こっちをどうしようという場面があったりします。ビールばかりでなく隣近所も含めて、人に来てもらえるような要因を作らねばなりません。 現在、メインの場所に四つの建物を使用していますが、1社だけではだめで、それぞれが魅力ある核があること。また、マイカルのエリアと北一ガラスのエリアに集まりがちですが、それをどうやって引き寄せるか。始めは産業道路のようなものでしたが、地ビールなどで人がたくさん通るようになり、歩いていたらジャズが聞こえてくるようなジャズ・ビール・ストリートを目指しています。 繁盛店という考え方があります。お客さんが得する店が繁盛店で経営者が得をするのではない。お客さんが最高に得する状況を作り、店は最低を割らないようにしながら、繁盛へ持っていく技術が経営であると教わってきました。そうすると、このエリアや小樽が、繁盛エリア、繁盛都市として、お客さんが喜んで来るようになればいい。でも、あまり観光客がたくさん来ると、観光公害があるかもしれません。たくさん来すぎると、どこかが壊れていくし、少ないと経営として成り立たないので、適正規模のお客さんに来てほしい。 私は北海道にさっぱりいないので、非常勤社長と言っていますが、最近海外では市長さんでも非常勤市長ができつつあるようです。グランドデザインは市長が行うのでしょうが、マネジメントは別ならば海外のいろいろなところへ行って勉強できると思います。私は岩手の盛岡で創業の際、盛岡のいろいろな店を全部回って食器を調べました。理由は「買わないために」です。そして他から、そのまちに一切ないものを選び出して個性をつくりました。他に絶対ないものです。海外でもいろいろなものを見た上で、自分たちらしさをつくらないと本当の戦いにはならない。これも競争だと思います。 小樽の中での競争もあります。小樽にたくさん人が来たならもっと分散し、それぞれのエリアに異なる特徴を持たせることで、そのエリアが成り立っていけばどれだけいいだろうと思います。また、札幌から見た小樽の魅力は何でしょう。小樽運河もだいぶきれいになってきましたが、もし透き通った運河ならもっといいでしょう。春、花の咲く北海道らしい生き生きとした雰囲気にあふれるまちなら、どんなにいいでしょう。秋は紅葉がきれいだったらいいし、海底の春夏秋冬の変化も大切にすべきです。天狗山にはスキー場もありますし、四季に応じて恵まれた環境にあります。 私はアメリカに学んできましたが、どうもアメリカの文化にはなりたくない。考えてみれば、20世紀は欧米のまねに終始してきたような気がします。21世紀は、子供や孫に、欧米のまねを目的にしてほしくないと思い、日本のことを猛烈に勉強し始めました。そうするといろいろなことが分かりました。ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばせたとありますが、それ以前に愛媛県の忠八さんという人が飛ばせている。ふと足元を見れば、今までまるで気づかなかったことがたくさんある。 外国人の見た古き良き日本は「逝きし日の面影」で渡辺京二さんが書かれていますが、海外から人が来た時、日本人は貧しかったが礼儀正しかった。貧しかったが清潔だった。貧しかったが親切だった。そのような文化がたくさんあった。ありし日の日本の姿を浮き彫りにすることにより、今の日本に静かに警鐘を発している名著です。今、自分たちに見えていないようなことが、古さの中にたくさんあったのではないか。古いものには時間の背景があるので、絶対まねのできないものとしてあるのではないか。小樽を見ると、どんどん壊れていっている気がして仕方がありません。全部開発すればいいとは思いません。残すものをきちんと決め、適切な活性化の方法を使い分けることが大事であると考えます。 安田(コーディネーター) 同じ倉庫を活かしたまちづくりでも、企業の方が考える場合、とにかく競争の中で企業の戦略として考えなければならないけれど、他にないものを個性とするということですね。繁盛店とはお店が繁盛すればいいという経営者サイドの発想ではなく、お客さんが得をし、楽しんで帰るのが繁盛店であるというのは印象深いお話でした。 次に、北海道ワインの嶌村さん。ワインづくりを始めたときは、まだ私たちがワインに親しんでいない頃だと思います。お酒はビールか日本酒、ウイスキーという時代にワインづくりを始められ、販売時のエピソードなどいろいろあると思います。それとワインの現状についてお聞かせください。 「北海道のワイン産地としての可能性」 北海道ワイン株式会社代表取締役副社長 嶌 村 公 宏 今回の会議の話題とは、一番かけ離れているような題名ですが、ワインは世界各地で愛飲されており、ワインのあるところには人が集い交流が生まれると強引にこじつけ、パネリストとして参加させていただきました。 今日の日本のワインづくりが、本当の文化の交流になるかどうか、その検証から入りたいと思います。皆さんが国産ワインと思われているものは、国産ブドウを100%使ったものだと思います。しかしこれは、全体の15%しかありません。何が使われているかというと、3リットルとか、タンクローリーで運ばれるバルクワイン(輸入ワイン)と純国産ワインとのブレンドです。もう一つは、海外からジュース用の濃縮果汁を輸入し、日本の水で4〜5倍に割り、ワイン用酵母を入れます。日本で醗酵すると国内産ワインと表示できます。2・3番目のワインが国産ワインの85%を占めています。 皆さんのイメージでは、山梨県が日本のワイン産地と思われているようですが、課税移出出荷というものがあります。ワインの場合は、ワイン工場から出る際に酒税がかかりますが、その酒税が一番多くかかっているのが山梨ではなく、神奈川県です。理由としては、輸入ワインや果汁を最も輸入しやすい横浜港に入れ、その近くの工場から出荷するためです。私がこういう話をするからには、北海道ワインは国産ブドウ100%だとご理解いただけると思います。 次に、北海道のブドウの現状をお話します。北海道庁農政部のホームページから抜粋した主要果樹の栽培面積、収穫量について、過去10年間の表です。10年間で減っていないのはブドウです。主要果樹として栽培が多かったリンゴは半分以下に下がっています。ブドウが下がらない理由は、私どもがワインの原料として、生食用のナイアガラやキャンベル、デラウエアを使い始めたからです。先日も新聞に掲載されましたが、タマネギなどは豊作貧乏で農協が廃棄して価格維持をしますが、ブドウに関してのみ増加しております。ただ、果樹農家自体は高齢化し、年々減っているので、私どもがたくさん使っても減るのが当然です。増加している理由は、ワイン専用のブドウを自社または契約農家で植え始めているからです。 皆さん、ブドウといえば棚から下がっているイメージが強いと思いますが、私どもが作っているブドウは、ヨーロッパのワインづくりと同様に垣根式です。この作り方の良い点は、機械化ができることです。後継ぎがいない果樹農家でも、1人雇えばある程度の規模なら可能になります。ブドウは枝の低い部分になりますから、収穫まで機械で行うことができます。農業に株式会社が参入できないなどと言われていますが、やり方次第では、果樹農家の繁栄に役立っていけると思っています。 自社農園の敷地面積は400ヘクタールで、東京ドームが100個入る広さです。やはり防風林のような林を残さねばならないので、実際の植栽面積は150ヘクタールくらいです。浦臼町では、バブルの際に浦臼リゾートを計画し、バブル崩壊とともに計画が霧消した土地ですが、私どものワイン畑を中心としたまちづくりを始めています。町も「ブドウとワインのまち」というキャッチフレーズでワイン祭りを中心になって開催しています。 私どもの会社は、今まで田舎ばかりで活動してきました。小樽の場合は港、運河からのまちづくりが盛んですが、山の方も見直してみよう。会社が毛無山というキロロリゾートに行く途中の山の中腹にあるので、そのあたりにブドウ畑をつくろうという計画を進めています。ただ、農地法や酒税法の問題など、いろいろクリアすべき問題がありますが、将来的にまちづくりにつなげたいと考えています。 安田(コーディネーター) 果樹栽培の表で、他は減っているにも関わらず、ブドウだけ伸びている。タマネギは潰されていましたが、ブドウはワインの原料になっているため救われているそうです。栽培農家の高齢化問題や機械化や今後の産業展開について、後ほどお聞かせいただきたいと思います。 次に、小樽には「雪あかりの路」という、冬のお祭りがあります。とても素敵な名前ですが、初期の計画段階から参画されている米花さんにお願いいたします。女性にうけそうな名称でコンセプトやタイトル、イメージづくりは、最近のイベントでは非常に重要な要素です。キャンドルを灯すそうですが、それが最初なのか、名称の決定が先なのか、その点にも触れていただけたらと思います。 また、ボランティア活動についてもご紹介ください。 「雪あかりの路」を通して 株式会社ウィンケル代表取締役社長 米 花 正 浩 私は今、「雪あかりの路」の事務局長を務めております。このお祭りができた経緯ですが、小樽市には観光協会という社団法人があります。そこでキャンペーン部会、これはキャンペーンだけを主としたグループですが、それをつくったのが最初です。そこのグループ・団体が現在、小樽観光誘致促進協議会という任意の団体に変わり、それが独り歩きをして調査研究部会を作りました。そこで1年半ほどかけ、今の小樽観光の問題点や、今後のあり方を話し合い、冊子にまとめました。その中で、小樽の冬の夜の観光が弱いということで、何か実践できないかとこのイベントが考え出されました。 これは、私と当時観光課の大野係長、山口保氏の3名で発案しました。あまりお金のない協議会だったので、当初予算が70万円でした。それで、一番安くできるイベントという発想からロウソクが挙がりました。山口保氏が、ぜひ運河に灯りを浮かべたいと提案しました。当初は、お盆の灯篭流しを想像していましたが、小樽らしくないので、浮き玉にロウソクを仕込んではどうだろう。アイディアだけはありましたが、実現できるかどうか、企画会社も加えながら実験し今に至っています。 協議会の中で、灯りを浮かべるのは構わないが電飾にしよう。もしこれが失敗したら小樽の恥だという意見があり、約25名の委員中23人が電飾派、2人だけのロウソク派で頑張った経緯があります。めでたく実験が成功したので、お許しが出て今があるわけです。これは、本物というコンセプトを大事にしたかったためです。 本物の灯りとは、やはり火ではなかろうか。この火を大切にしてきたことが、この祭りの成功の要であったと思います。私の記憶では、ロウソクが先で、ネーミングは後だったような気がします。 「雪あかり」と「雪あかりの路」あと2・3あったような気がします。「雪あかりの路」を採用するためには、伊藤整氏の問題をクリアしなければならず、遺族会のご了承を得て使用しています。 初年度、我々の期待以上に人気が高く、2年目はバケツキャンドルが独り歩きし、それのみになってしまいました。大量のバケツキャンドルとロウソクを灯すには非常に苦労しておられたにも関わらず、我々は冷たく「センスないよ」と…。そのへんの兼ね合いがとても難しいのですが、光のオブジェをつくっていただきたかったわけです。それが雪像やただ均一に並べるだけだと、きれいではあるが「センスがいい」とは言えない。このあたりの、お祭りの組み立てが非常に難しい面でもありました。必ずプロフェッショナルを加えたい。有料の部分と、ボランティアの棲み分けなどは、未解決の部分がありますが、プロの方に、ハーフボランティアといった位置づけで参加していただき、プロデュースしていくことが不可欠です。センスのいい、きれいなお祭りを行い、それを市民の方々が学び、切磋琢磨していくことが我々の現在の活動です。 今まで述べてきたことは、このお祭りの表面的なことです。我々が本来目的にしたかったのは、人と人とのコミュニケーションや町内会のコミュニティの復活などです。第2回目の「雪あかりの路」で確立したのですが、その時のエピソードをご紹介します。 我々は町内会に、一緒に「雪あかりの路」をやってください。小樽のまち全体をロウソクの灯で飾りたい。小樽市の街灯が一瞬でも1時間でも消えれば、世界一安全なまちだと有名になるし、それが夢ですと説明していました。第2回目、その町内会は参加しないことに決めました。そのキーパーソンの方のお孫さんが、一人だけでもやろうと昼間にバケツキャンドルを作り、家の前に作り置きしていました。夜に灯を入れようと出てみると、蹴飛ばされて壊されていた。当時はよくそんなことがあったのですが、それを見たお孫さんが自家中毒になって倒れてしまった。それを聞いた町内会のおじさん、おばさんが、「これではいかん」、「皆で作って、きれいだね」と、お孫さんに見せるために作り出しました。結局その町内会は、参加したわけです。このエピソードは、このお祭りの本来の目的であり、第2回目からこれを我々の趣旨として頑張ってきています。 昨年、第4回目には、北海道からの400万円の助成金がなくなり、本当に困り果てていました。基本的に市民のお祭りにしたいと、各町内会に販売所を設け、ロウソク10本入り1袋500円の販売を行っています。小樽市役所の方々のご協力を得て、半分以上売っていただきました。それにも増して、市役所に「雪あかりの路」ができ、プレを含めて15日間、ボランティアか残業かは不明ですが、市役所の方々が制作しています。民だけではどうしてもクリアできないハードルがあり、行政の方々が夜間、勤務終了後に手伝ってくださる。市民ボランティアも一緒になって、それに火を灯している姿は、非常に信頼感を与えます。この面をもう少しバージョンアップしていきたいと思っています。 安田(コーディネーター) 道路沿いといいますか、公共の通路や運河を使用する際、警察などの許可を得るのは大変だと思います。後半はその点もお話しいただけたらと思います。 では次に、ピアニストの中川さんですが、海外、特にヨーロッパでの演奏経験が多く、滞在を通してまち並みに触れることが多いと思います。日本とヨーロッパのまち並みを比較し、特に印象に残った点、旅行者より少し長めに滞在して分かったこと、そのあたりをお話していただきます。 「演奏活動で見た海外のまち並み」 ピアニスト 中 川 和 子 今まで、ものをつくり上げるというテーマで、それぞれのご発言を伺いました。私は、ごく個人的な感覚で自分の仕事である音楽から離れ、ヨーロッパに滞在していた時あるいは今は日本におりますので、時々行って滞在する際に感じること、また、古いまち並みの中で、突然活力を与え、驚きをもたらしてくれるような建物やものを目にしたときの自分自身の感激のようなものをお話させていただきます。先ほど基調講演でファビオ先生が音楽祭と音楽について触れられ、音楽学校と音楽祭のあり方や北海道の音楽事情について述べられたことは、とても嬉しく思っています。 最初に、少し時間が経っていますが、自分が留学時代に6年間過ごしていたオーストリアのウィーンにある一つの建物をご紹介したいと思います。ウィーンは、音楽に携わる者もしくは他の芸術家にとって強い憧れのまちです。音楽にとってはオペラハウス、コンサートホールであり、美術家たちがたくさん集ったカフェがたくさんあって、とても素敵なまちです。観光で訪れた場合には、その素敵な部分ときらびやかな部分が強く印象に残ると思います。 ところが、例えば私のような外国人がある一定の期間ウィーンで暮らすとします。これは私の周りの人間だけかもしれませんが、とても暗くて、寒くて、古い雰囲気だったと言えます。勉強させてもらっているのに申し訳ないのですが、必ず暗いという言葉が出てきます。旧市街では、100年以上経った建物に皆さんが住んでいるので、自ずと建物の色もくすんでくるし、高い建物なので日照が悪く暗い感じがします。まして、今ごろから冬にかけては、季節的に太陽が顔を出さなくなってきます。気候的な条件も加わって、なお一層、暗い憂うつな雰囲気になってしまいます。 フンデルドヴァッサーという建築家による建物があります。これは一般の公営住宅で、中で人が生活しています。観光客も多く訪れるようで、住人の話では、とても落ち着かないと聞いたことがあります。外側を見ただけでも、巨大なビックリ箱のようで、古い建物が連なる通りに突然現れた感じがします。異質さを感じる方もおられるでしょうが、私はこれを見た時、ちょっと暗くて寂しい時期を過ごすウィーンの人々に、建築家が「元気を出して楽しく夢を持って暮らしてはどう?」というメッセージを込めたのではないかと思いました。例えば手すりやお手洗いなど、内部の部分もとてもユニークなひとつの芸術品となっており、それが日常的に使用されているというところに夢があるような気がします。 次にウィーンからスイスに移ります。写真は透き通った電話ボックスです。私は今回、古いものの中にある新しいもの。そこに住んでいる人に活力や夢を与えるものに出合った時の嬉しさをお伝えしたいと思いました。これも単なる電話ボックスで、チューリッヒの駅前通りにあります。世界で一番物価が高いというバンホフシュトラ−セという有名で長い通りです。ここの両脇にも古い建物とスイスならではの銀行群が立ち並んでいます。建物自体とてもセンスよくレイアウトされ、世界中のファッションその他が扱われており、たいへん素敵なところです。そこに突然、ぽつんぽつんと透明で丸い電話ボックスがあります。最初にこれを見た時、中に入って電話をしたら、現実世界からちょっと離れて、未知の世界に連絡がとれるのではないかと夢を描いたのを覚えています。周りの古い建物とうまく共存し、若手のデザイナーたちの作品をまちの中に活かしている一つの例だと思います。 スイスは、ウィーン同様、路面電車が通っています。一般市民は、ボーヌング、日本でいえばアパートのような総合住宅に住んでいます。電停には青い機械があります。これは乗り物の自動券売機ですが、すごく便利です。乗る前に自分で買いますが、時間的に2時間以内なら、そこを始発としてどの方向に行くかさえ決まれば、ある一定の金額で、乗り換えも乗り降りも自由という切符です。例えば小樽でも乗り換えるたびに料金を払うのではなく、もう少し使いやすいアイディアがあったらいいのにとこの機械を使うたびに思います。 これはウイーンのごみ焼却炉ですが、お分かりのようにフンデルトヴァッサーの設計です。電車の中から何気なく外を見ていると突然煙突が現れ、何だろうとあわてて飛び降り写真を撮りました。この建物は街より少し離れた場所にありますが、下にはすぐ地下鉄乗り場があるし、人々の生活の中にごみ焼却炉があります。ごみといえば、どうしても不潔なイメージですが、決してそれを感じさせず楽しめます。ごみもここで焼かれるなら幸せかな、という感じがする建物です。 ヨーロッパで暮らしていると、日本の良さも強く感じますし、日本にはないものも感じます。いろいろな意味でおもしろい発見があることは確かです。古いものを活かす、再生することも大切なことですが、日本でも、そして小樽でも思いきったアイディアを持った方の作品を多く取り入れ共存していく。そして、そこに住む人たちがそれを見て、肌で感じて活力をもらい楽しく過ごせるそんなまちになったらいいなと思っています。 安田(コーディネーター) 古い建物の中に、個性的なアパートがあったり、宇宙を連想させる電話ボックスがありました。古いものと新しいものを共存させるといっても、結局は暮らしていかねばならないので、古いものを全て利用して暮らすというのは、なかなか難しいと思います。生活する側からの視点でお話していただきました。 私から皆さんに、少し気づいた点を述べさせていただきます。まず、企業家として古い建物をうまく活用し、活性化されてきた庄司さんにお伺いします。4軒の店を考えておられたそうですね。確かに、観光客が来るエリアはマイカル、北一、運河沿いの古いまち並みだったり、他にもいいところがたくさんあると思いますが、分散しているより、観光客がぶらぶらしながら面白いところに惹かれてしまうような動き、もう少し広げてエリアをつくることも大切かと思います。 その点について、何か戦略はありますか。 庄司(パネラー) お客さんが北海道に来ると当社の関連施設を案内します。伊達の牧場を見て、アンヌプリ温泉に泊まり、翌日は小樽を見て札幌へ行く。回遊といいますか、トライアングルツアーといいますか、単体の効果でなく、個性を結びつけるよさがあります。どこか地方都市に行った場合、何かを見て、小さいけれどおいしい店で昼食をとり、午後はまた観光して、夕食には名物を探し、宿泊には温泉を選ぶというコーディネートが非常に大切だと思います。そのとき、ちょっとした小さいお店は核になります。もてなすという面から見ればとても大切なことで流れが重要です。 小樽は古い建物ばかりでなく様々な伝統的なものがたくさんあります。それらをつなげば一つの商品になるというか、来る人にとって価値になると考えます。ただ食べて帰るだけではありません。例えば洞爺湖の山頂に立派なホテルがありますが、あれだけでは来ません。泊まるためだけにわざわざ行かない。しかし、そこに三つ星の凄腕のシェフが来たと聞けば、料理を食べて宿泊するというスケジュールが組みやすくなります。 環境に照らしてみても、小樽で全ての生ごみ処理をするのではなく、余市の畑とタイアップするなど他との関連で生きてくるものがずいぶんたくさんあります。また、そのようにパートナーシップを発揮し、自分のよさに何かをプラスすることが必要です。 滞在時間の問題もあります。小樽の坂の上にはきれいな教会があるとか、素晴らしい職人さんがいるとか、それらをつなげば滞在時間も長くなってきます。また、ただの買い物ではなく、そういう旅行を好む人の方が質がいいのではないでしょうか。普通リゾートなどでは、客を集めることは考えるが質のことは考えません。経済で考えれば、客単価を上げることも必要です。ただ数を集めるのではなく質やレベルを問題にする。 オーストラリアのノーザンテリトリーは何千人しかいないまちですが、ワニの形をしたホテルがあります。田舎にも関わらず、自然に恵まれているので、研究者や学者がたくさん訪れる立派なホテルです。羅臼などを見ても、ただ数を集めるだけではだめでしょう。滞在時間が長くなれば、そのまちに落とす客単価が上がるということです。また、1ヵ所に集中すると環境が悪くなります。住民と観光客のバランスを適正にすれば観光公害もなくなります。 例えばフラワーロード、白い花をたどっていくと、こんなところが見られますというマップです。イギリスなどでは、自分ならこう歩くという地図を200円くらいで売っています。小樽はジャズが盛んで、アマチュアもたくさん活動しています。すでにあるそういう動きを助けていく。小樽は民活がしやすいし、民間の活動をフォローする方が、企業を誘致するより有効です。ジャズがあるから小樽に住んでいるという人も多くいます。私もドラムが好きで、学生さんたちと一緒に演奏しています。それによって繋ぎ止められている人も多いので、様々なものの組み合わせはすごく大切だと考えます。その意味では、民活の機が熟していると言えます。 安田(コーディネーター) 今日のパネラーの方々は、たまたま民間の方ばかりです。同じく民間企業として、ワインの嶌村さんに伺います。昨日テレビを見ていたら、品質保証の規則をつくるという話題で長野県の信州ワインが出ていました。一企業だけで産業をつくっていくのはとても困難で、ワインづくりに関わっているクラスターといいますか、企業の方々と今後どのように活性化を目指されますか。 嶌村(パネラー) 一昨年くらいから、BSEの問題で原産地が騒がれ始め、長野県の場合、田中知事はワインが大好きとあって、真っ先にワインと日本酒のDOC(原産地呼称制度)を立ち上げました。他のワイン産地では、現在、山梨が山梨県産ワインの認証制度を立ち上げました。これは長野ほど厳格なものではなく、山梨県産のブドウを使い、感応試験に合格すればシールを貼れるという程度です。長野の場合は、ブドウの糖度にも厳しく、私どもの会社でDOCの基準を満たせば半分以下になってしまいます。ですから長野で実際にできるのか疑問です。 私には北海道を世界のワイン産地として認めさせたいという夢があります。道庁の食品安全室が中心になり北海道版DOCを立ち上げようという動きもあります。これによって、道内でいいブドウを作り、ワインにしようという機運になれば、農村のブドウ作りが発展し、良質であれば酒屋さんでも売れる。一次、二次、三次産業すべてが発展できるのではと期待しています。山形も山梨同様に認証制度ができ、これも県産のブドウを使用し、感応試験に合格すれば認証するという程度のものです。北海道は少し出遅れてしまったので、どういうかたちになるか興味がありますが、他が先に決まったので苦慮している最中だと思います。 北海道のワインメーカーには、道産ワイン懇談会があり、現在7社あると思います。他にも免許を持っているメーカーはありますが、量的に少なかったりで加わっていません。7社の中には、我々のような民間もあるし、池田のような町営、富良野のような市営もあり、様々な企業形態があって考え方がまとまりません。DOCの関係には、懇談会は加わらず、ソムリエ協会に入っていただき、ある程度基準を作った段階でワイン懇談会に振っていただくというかたちを採ってもらうようにしています。 DOCは、先述したように安いワインがたくさん入ってくるし、国産ワインも原料不在のものが500円以下でありますので、それとの差別化のために必要だと思います。私どもは価格競争を止め、土地の個性を付加価値としてワインづくりをしていきたいと考えています。 安田(コーディネーター) 地域の持っている個性、可能性を最大限に活かすというのが、お二人に共通したご意見だと思います。 嶌村(パネラー) そうです。北海道でシャトーマルゴーを作る必要はありません。北海道の気候に合った、酸のきりっとしたおいしい白ワインなら今でもできますから、道内のワイン会社がそろってそれを表に出していけばいいのですが、赤ワインが売れるので、どうしても赤ワインを作りたくなります。個性を出す努力を業界と行政が一緒にしていけば産地として十分成り立つと思います。 安田(コーディネーター) お二人から、「質」というお話が出ました。観光でもただ大量に訪れてすぐ帰るのではなく、滞在してもらうためには質を高めなければならない。そのためには受入側のホスピタリティが大切になります。米花さん、「雪あかりの路」を展開させるうえで、どういうことをお考えですか。 米花(パネラー) 最近は体験観光が言われ始めました。要するに、現地の人とコミュニケーションができ、手紙のやり取りをして「また来るね」というのが、美しい基本です。これは、ボランティアに参加し、ともに汗をかき、感動を共有するのが一番早い。韓国の1大学でボランティアを募集し、15人集まったが、何人までいいのかという連絡がありました。20人でも30人でも集まる状況で、とても嬉しく思います。その人たちをまちがどう受け入れるか。もしこの場で、ホームステイを望む方がおられたら是非申し入れてください。ボランティアを受け入れた家庭は、必ず「雪あかりの路」に参加すると思います。まち全体がロウソクの灯で輝く日がいつか来るのではと期待しています。まちの外の人との関わりも生まれます。 我々は「観光まちづくり」という表現をしていますが、観光は非常に幅広く、公園も観光の一部ですし、宅配便も観光です。小樽市の観光に関するデータでは、宅配は運輸に含まれてしまいますし、観光のジャンルが狭まってきます。見方をもう少し変え、幅広い観光まちづくりのコンセプトを持っていただければと思います。 安田(コーディネーター) 中川さんは、観光客だったり、滞在者だったり、日本から訪問されていたわけですね。暮らされたのは何年くらいですか。 中川(パネラー) ウィーンの6年間です。帰国してからは年に何回か、主にドイツ語圏に出かけています。 安田(コーディネーター) 私など古い建物に暮らすことは素晴らしいだろうと観光客の目で見ています。中に人が住んでいるというイメージはわかないのですが、どうやって暮らしているんですか。庶民的な質問で、エレベーターがあるのかとか、具体的なことをお聞きしたいです。 中川(パネラー) 私の知っている限りですし、10数年前のウィーンとは変わっているでしょうが、私の住居は石造りで日本式の8階建でした。あちらでは日本の2階が1階ですから、非常に高い建物ですが、エレベーターはありませんでした。人間が上るのもたいへんです。私の場合、仕事がらピアノという楽器が必要で、グランドピアノを借り入れました。日本ならマンションの窓からクレーンで入れたりしますが、当時のウィーンでは考えられないことで、本当に巨人ともいえる大男たちが、そうした仕事に就いています。普通の人の3倍もある男性が、脚をはずして平面になったピアノを帯でひょいとランドセルのように背負って、タッタッタッと運び入れたんです。それを見た時は、有り難かったけれど驚きとともにエレベーターのない生活が思いやられました。 安田(コーディネーター) 水道、暖房などはどうですか。 中川(パネラー) 冬は寒いし暗いです。日本からの留学生の大半が、冬に1回、うつ病にかかると言われているくらい非常に暗いし寒いです。雪は小樽に比べてさほどではないですが。それに、私たち学生は非常に節約した生活をしているので、なおさら悲惨なものになったのかなと思います。水道、ガスは知っている限り全部通っていましたが、共同トイレがほとんどでした。トイレが建物の中にある場合もあるし、かなり古い建物では、日本ではバルコンと言うのでしょうか、要するに一度外へ出てトイレに入らなければならない。一度住んだ家がそんなところで、冬は凍ってしまい、それぞれバケツを用意するような生活をしたこともあります。水道もガスも通っていますから、普通に生活するぶんには問題ないと思います。 安田(コーディネーター) 歩道からすぐ建物という感じで、ドアが閉まっている感じがします。郵便受けなどは遠くにあるのですか。 中川(パネラー) 私の住んでいたところは、外側に大きな鍵のかかっているドアがあり、皆さん鍵を持っているわけです。ヨーロッパはどこもそうだと思いますが、その鍵で開けて、自分のドアの鍵を開けます。ですから、あちらは鍵社会で、ジャラジャラたくさん持っています。ウィーンでは、郵便屋さんはその地区の鍵を持っていて、中にある小分けされた郵便ボックスに入れます。外から人が訪ねてくる時は、日本のオートロックのように部屋から開けるという感じです。簡単に人が入れないようになっていますし、お世話する人もいるので、安全な面もあります。 安田(コーディネーター) まち並みで見ると非常にきれいですが、ごみの収集や収集車が通るということは…。 中川(パネラー) もちろんありますが、ごみは見えるところに置いていないと思います。ウィーンでよく見られるのは、住居になっている建物に中庭のようなスペースがあり、そこに全家庭のごみを集める巨大ごみ箱のようなものが設置されています。住人はいつでも捨てられます。ただ、分別はとても厳しくなされますが、燃えるごみはそのまま入れます。週に1・2回、収集車が来てドアを開け、ゴロゴロ転がるごみ運搬機のようなものにごみ箱を乗せ収集車まで運びます。外からごみは見えないようになっています。最近訪れたスイスでは、地下室で処理できるようになっていました。ごみに関しては日本より敏感で、積極的に取り組んでいると思います。 安田(コーディネーター) 古い建物は見るだけなら素晴らしいが、実際に活用して暮らすためにいろいろな工夫がなされているかをお聞きしました。 水野先生には、歴史のある金沢の中に芸術村をつくられ、そのプロセスで出てきた市民の意識変化や発案について伺いました。これから都市を蘇らせる、再生していくために重要なポイントをご専門からご指摘ください。 水野(パネラー) まず、市民はかなりパワーを持っている。価値観もそれぞれ持っている。いろいろな力を持っているということを認識すべきだと思います。その中には、古い建物を上手に使える人がたくさんいる。専門家が悩みすぎたり、簡単に片づけたり、一般的なジャーナリズムが、古い建物は使いづらいだろうと言ってきますが、最近は本当にそうかなと思うようになりました。 市民芸術村を例にすると、演劇ならば1週間貸します。練習し、舞台装置を作り、切符を売り、最後の2日間ほどを公演にあてます。それからまた、次の劇団が入るのですが、1年間で45の劇団が公演を行いました。幕の使い方、切符の売り方などみんな違います。何も心配する必要はなかった。すごいパワーがあるなと感じます。 ミュージック工房では、ジャズやロックを含めバンドが180ほどあります。それがどんどん練習して公演していきますが、中学校の同級生が高校では別になったが、バンドは続けているとか。職場で、あるいは職場を越えて、あるいは地域社会でと様々です。その人たちが次から次へと楽しんで演奏している。実はすぐそばにJRの線路が走ってるので、特急列車が通ると電車の音が聞こえてきます。その音はどうしても消せない、すみませんねと言うと「そんなことは気にする必要はない。僕らはアマチュアだから構わない」と。要するに、ハイアートを求めているのではなく、コミュニティアートのようなものを求めているわけです。 時間も夕方6時から夜12時まで借りると1,000円で、12時から翌朝6時まで1,000円です。2,000円分、夕方6時から翌朝6時までが、利用率の6割です。サラリーマンや学生が使う遅い時間は、市の職員はいませんが自主的に管理します。自分たちのものだという意識が強くあるということです。そのうちに、照明や音響、大道具をどうすればいいか分からない劇団がたくさん出てきたり、ミキシングを知らないバンドも出てきます。すると、ディレクターたちが照明講座や音響講座などを開きます。1年間くらい修行するとセミプロみたいになってきます。それをボランティアのテクニカルクルーに指名し、任せてしまいます。だんだん進んでいくと、ディレクターたちは、貸しホールではつまらないと考えるようになり、シナリオライターを育てる講座、中高校で演劇を教える先生を指導する講座などを組み出します。すると、その演劇活動が次第に石川県全域に広がっていきます。 最初、まちのロックバンドの貸スタジオが、6時間1,000円に反対運動をしていましたが、ロックバンドが増えたので、そちらの回転率もどんどん上がった。また、楽器店ができたり、まちの公演でパフォーマンスをする美術グループや音楽グループができたり、要するにまち全体に文化が広まっていく状態が生まれてきました。 市民の活動が意外にあるということは、今後の低成長、少子化、高齢化、定住化の中で、どこで住めばいいのか考えたとき、自分の生きがいを成し遂げてくれる地域は住みやすいことになると思います。こうした活動が、波及効果として「生きがい都市」のようなものを目指すとき、一つの指標になると感じます。 今、「利家とまつ」という大河ドラマが放映されていますが、まつが言う言葉に、「おまかせくださりませ」というのがあります。それが金沢でものすごく流行っていて、女性たちが強くなり、男たちがしゅんとしてしまっています。利家は、おまつに完全に負けてますから。その言葉を借りれば「市民におまかせくださりませ」と言っていいと思います。 もう一つは、市民芸術村だけでなく、いろいろな活動を展開しています。先ほどこの施設は繊維工場であったとお話しました。石川県で作る繊維の注文主は大部分が大阪です。大阪から注文が来て、A社が2,100円というと、B社が2,050円、C社が2,000円、D社は1,950円などと、150円を汗水たらして値下げして納めます。ところが、あちらでワニや傘のマークがぽんとついただけで、5,000円になってしまいます。そんな経験をたくさんしています。今は、その1,950円も中国なら300〜400円でできます。金沢という都市は何をつくるかというと文化のようなものしかない。要するに、ワニや傘のマークを作ることに近いのですが、ちゃんとしたものをつくる。そのときに、ちゃんとした遊びをしている。ちゃんとした文化や味を知っている。そういうある種のレベルを市民全体が上げていかないと生まれてこないだろうと考えています。 そこで最近「創造都市」という表現で、文化活動は産業と無関係ではなく、文化活動こそ、これからの日本の産業を含め、金沢のような都市産業をつくる基盤であると考えます。先ほどからいろいろ述べられている「質」、「味」などの目利き、見立てのできる人間を育てよう。そのためには、子供のときから高齢者になるまで、そういうものに浸り込む。それが地域の活性化につながるのではないか、そういうストーリーを描いています。 これは、先ほどのファビオ先生のお話にあったイタリアから学んだことです。ボローニアやベローナ、ベネツィア、ミラノ、コモ、フィレンツェからずっと学んでおり、たくさん職人を呼んで、市民芸術村で交流を行っています。そうすると、金沢が持っていた伝統的な工芸や味といったストックと同じである。ただ、近代産業、例えばトヨタ、松下、東レなどに日本が傾いたとき、金沢も一緒に動いていってしまった。金沢が置いて来てしまったものを、もう一度自分たちの足元を見ながら、そのレベルのものを見直していこう。それによって、次の新しいものが生まれるかもしれない。歴史的なものをできるだけ残しておいた方が、その都市の価値観が高まる。 ファビオ先生は、「違いがたくさんある方が豊かだ」という表現をされましたが、様々な時代の価値観がストックされている都市ほど豊かです。そういう意味では、小樽もストックしようとしている。ストックすることと新しくつくることがあるから、豊かになっていくわけです。ただストックするだけではだめで、いろいろな時代の層を持つことが、豊かなことである。それが、次の日本人の活力源ではないかと考え、芸術村の活動と並行して、「創造都市」を皆で模索しています。 安田(コーディネーター) 水野先生には、たいへんいいお話でまとめていただきました。今までは、高度成長の中を、余りに急いで走ってきたので、大切なものをたくさん失っていて、埃をかぶるまま、物置の中に忘れ去っていた面があります。この低成長といわれている時代にこそ、それに気づいたり、もう一度見直す“ゆとり”があるのかもしれません。 後半は、コメンテーターに参加していただき意見交換を行います。長時間、有り難うございました。 司 会 それでは3名のコメンテーターをご紹介いたします。札幌大学教授で小樽市の都市計画審議会会長を務められる千葉博正様です。お隣りは地元小樽商科大学教授で同大学の前国際交流センター長であられた船津秀樹様です。3人目は、基調講演をいただいたランベッリ・ファビオ先生です。 それでは引き続き、安田コーディネーターに進行をお願いいたします。 安田(コーディネーター) 今まで、5名のパネラーに具体的な事例をお話しいただきましたが、コメンテーターの先生方から、一言ずつご意見などを伺いたいと思います。まず、ファビオ先生、金沢、小樽、北海道などの事例でしたが、ラヴェンナやイタリアと比較し、特に印象に残った点は何でしょうか。 ランベッリ(コメンテーター) 皆さんのお話を非常に興味深く聞きました。イタリアでも似たようなことがたくさんあるので、違和感を抱くより、親しみを感じました。中でも、水野先生のお話はとても印象に残りました。ラヴェンナでも似たような実験があります。余り使われていない施設をまちが管理し、望む人にほとんど無料で貸し出す例がたくさんあります。不思議なことではなく、それが常識なのかもしれない。 庄司さんは地ビールも含め、まちのオリジナリティを生かすべきと言われました。これはイタリアのまちの伝統的な考え方です。イタリアには「カンパニリズモ」という言葉があり、それは教会の鐘楼の比較です。つまり、「我がまちの塔の方が高い」と、自分たちのまちへのプライドを象徴する表現です。しかしこの考えにも限界があり、競争ばかりで本質のないディテールにこだわる傾向が見られます。しかし、自分が生かしたいものを強調するのも一つの常識だと言えます。 嶌村さんのワインのお話は、大変参考になりました。日本のワインの大部分が、なぜこんなにまずいのか教えてくれました。ジュースを加工するなどワインと呼べないですね。北海道のワインができれば、世界的にも意味があると思います。品質を保証するDOCの資格や組織に触れられましたが、ヨーロッパには以前からあります。競争、創造力、オリジナリティ、品質を考える上で、非常に刺激的で重要なことだと思います。しかし、一地方や国家のレベルだけでは成立しないかもしれません。最近では、ヨーロッパ全土の品質管理や産地の保証を行う動きが盛んで、これもイタリアと似ている点です。 米花さんは、ライトを使用してまちの雰囲気を活性化させたり、皆の参加によって新しいまちのイメージをつくる活動をされています。イタリアにも同様なものがあります。特にクリスマスの季節には、市役所と店の所有者が一緒になって、まちを光で飾る習慣があります。私は昨年、クリスマス少し前にイタリアの北西にあるトリノ大学の集中講義に呼ばれました。トリノでは、世界中の光を用いた現代アーティストのコンクールを行い、一番優秀な作品を取り入れています。街中に光による作品があり、とても感動しました。 中川さんのお話が示唆するのは、歴史と現代との関係をどう生かすかです。場合によっては一つの通りに一つの建物だとか、一つの電話ブースだけでも雰囲気が変わります。そこに住む意味が少しずつ変わっていくこともあります。まちづくりを大規模に考えるだけではなく、小さいところからでも実現可能であると分かります。 皆さんのお話を聞いて、私なりに幾つかのポイントをまとめました。一つは、まちづくりを部分的に行うと失敗するかもしれません。私にとって大切なのは、まちとは何なのか、どういうまちを目指しているのか、どんな文化モデルを利用したり実現しようとしているのか、まちでの生活はどんなものなのか、何を目指すべきかを考えねばならないと思います。そして全体的なプランに沿って様々な活動を展開するべきです。まちの経営者たちが、上のレベルだけでなく、市民個人個人がどんなまちにしたいか、なぜこのまちに住んでいるのか、それによる価値は何かイメージをつくらなければならないのです。それに沿って積極的に参加しなければならないと思います。まちづくりは官僚主義的なトップダウンではなく、市民にチャンスを与え、行うべきだと思います。 金沢の例もそうですが、イタリアでも同様です。市役所などが中心的な権力を持つのではなく、コーディネーターのような促進役と考え直すべきかもしれません。まちの中に潜在的あるいは具体的にある様々な動きをより醗酵させ促進すべき立場に立つべきだと思います。いろいろな差異、バラエティが対立を生むこともあります。日本人が対立を非常に怖がるのは最初から察していましたが、対立には悪い影響だけでなく、ポジティブな効果をもたらすこともあります。対立をどのように醗酵させるか、コーディネーターの腕前で良くも悪くもなると思います。 一つのものを中心としてまちづくりを行うと、還元主義というのでしょうか、失敗するかもしれません。まちは、一つのものだけではなく、いろいろなものや今まで考えられたことのない新しいものを発見する仕組みがないと、これからは困難が予想され、単一主義はやめるべきかもしれません。 安田(コーディネーター) 水野先生のお話を受けて、違いを否定するのではなく、違いが多様性につながり、豊かさを生むというご指摘がありました。都市計画に専門家として携わっておられる小樽市都市計画審議会会長の千葉先生から事例報告の感想と併せてお願いします。 千葉(コメンテーター) ファビオ先生の基調講演は、たいへん面白く感銘を受けてお聞きしました。パネラーの方々のお話も非常に興味深く、これ以上述べる言葉を失っています。私の役割は、皆様の議論を活性化するための火付け役であろうと思いますので、感想を少し申し上げ、ディスカッションにつなげていただければと思います。 まず3点ほど申し上げます。本日のシンポジウムの基本テーマは「まちづくりのルネサンス」であり、「交流と文化、そして豊かさ」という副題であります。豊かさとは、恐らく経済的なものではなく、精神的な豊かさと簡単に考えるとして、さて、「文化と交流」。文化とはなかなか難しいもので、しかもまちづくりに関係して文化をどう解きほぐしていくか。ごく単純に考えて、まず第1点は、文化でまちづくりを目指した場合、果たして文化は市民に根付いているのだろうかということです。今日のお話の中心的な考えは、文化の担い手は市民である。従って、市民中心の文化の創造と醸成をまちづくりにつなげようというのが、大方の方向性だろうと思います。さてどこで果たして文化は市民に根付いているのだろうか。基本的なことを少し考えてみます。 従来、日本で文化がまちづくりに果たしてきた側面は、文化産業という意味くらいしかなかったのかも知れない。具体的に言えば、ハコモノを作り、文化施設を作ることが都市の文化産業であるという側面が非常に強かったかもしれません。しかし最近は、文化を楽しむシステム、仕組みが必要であろうという議論になりつつあります。では、誰が楽しむのか。市民が楽しむのなら、その市民の実体は?ということになります。結論を先に言えば、私は、市民はとてもそんなモチベーションにないと言うつもりはありません。一例をご紹介します。 10月8日、私どもが仕掛けたある活動が、早朝のNHKで取り上げられました。朝7時半の番組ですから、ご覧になった方は少ないかと思います。札幌市の平岡地区に大きなショッピングセンターがあります。それを中心に大型店と地元商店街、町内会の方々が集まり9月14・15日に地域イベントを行いました。一言で言えば「地域の文化祭」です。NHKが興味を持って取材に来られ、我々が質問に対応しました。最初はニュースで流すつもりだったようですが、一つの番組になりました。今まで大型店と商店街は競争ばかりしていた。なぜ一緒にイベントをするようになったのかに興味を持たれたようです。 今の商業のあり方は曲り角に来ているのではないか。大型店はものを売り、お金に換え、巨大な販売装置であります。勤めている方々は、装置を稼動させるオペレーター以上ではない存在かもしれません。そのような商業空間は、都市の中でそのままであっていいはずがない。都市空間の中の商業空間は、もっと別な機能と性質を持つべきだろう。一方で商店街も、とっくに曲り角を過ぎ、奈落の底にまっしぐらという状況ですから、いわずもがなです。両方困った状況になってきた中から、新しい切り口を見つけよう。そこで地域の人々のライフスタイルはどうなのか。もう一度、この地域のライフスタイルのあり方を問い直す、あるいは文化的な活動の中からその糸口を発見できないか、このような理由で始めたわけです。 高校、老人クラブにもお手伝いいただき、50〜60歳の昔若かったおばちゃんが、ムームーを着て、大型店の中でフラダンスを踊る見られ、たいへん楽しいイベントでした。私は大学の教師で、ゼミの学生をただ遊ばせているわけにはいきませんので、手伝わせてアンケートをとったところ、実に面白い反応でした。大部分の方が、大変面白い、どんどん続けてほしいというご意見でした。私は疑い深い方なので、たまたまではなく、普段はどんな活動をしているかという質問も設けました。月・週のうち、どのくらい文化的、趣味的な活動をしているのか。もう一つは、その活動にかける金額は幾らか尋ねたところ、結構な時間とお金を使っています。 現場で150〜160人くらいヒアリングしましたが、週に2・3回、様々な活動をしています。金額で最多なのは、中年の方で、月に1万3,000円ほどです。次に多いのは高齢者で、1万2,500円で、一家で考えれば、結構な金額になります。ニーズはあるので、どんどん続けてほしいということです。 大型店で開催した理由ですが、店内に約50の文化教室があります。平岡は新しくできたまちで都心部から少し遠いので習いに行きにくい。たいへん手軽に利用されているようで、店長も利用者数を把握していません。自店でかなりのスペースを割いている文化教室の実体をあまりご存じなかった。ここがポイントです。商業施設は、ただ単にものを売り、利益を上げればいいというだけではないという観点から文化教室をお考えになったのでしょう。ただ、その実体を踏み込んで把握し、次の商業の展開を考えるまでに至っていなかった。何と2,000人以上の生徒さんがおられました。その方々に聞くと、教室でいろいろ勉強しても発表の場、練習の場がない。それゆえ、イベントが大変面白かったという感想になるわけです。水野先生のお話と通じる部分がありますし、今後の大きな動きになると思います。これは当然、商業活動に役立ちます。 しかし、ここで気をつけなければならない問題があります。それは、誰のための文化活動かということです。私が商業施設でイベントを行った動機は、商業の活性化が大きな主眼の一つであります。ただこれは儲ければよいということではありません。庄司さんも言われたように、今後の商業は儲け主義で店が栄えればいいというのではなく、地域の人たちが一緒に喜んでくださること。今まではよく、楽しんでいただける商業が中心でしたが、私はそれより重要なのが喜ぶことだと思っています。 市民の文化活動を展開していく上で、自慢げな文化より生活・暮らしに根ざした文化へが一つの考え方でありましょう。立派な施設を作り、著明なアーティストを呼び、我がまちはこんなに素晴らしいのだというパターンが随分ありました。そこからもう一歩抜け出たものを求められているのだろう。市民のコミュニティーも含めた展開ということです。これは「雪あかりの路」で話題になり、私はとても感心いたしました。 もう一つ、文化は個性だということです。いかにももっともですが、では個性的な文化、好ましい文化とは何だろう。プラス方向で考えれば、人の趣味は違いますから、文化は百人十色です。逆に消去法で、どんな文化が一番好ましいと思われるか。古ければいいのか、そんなことはありませんね。醗酵して味わいが出たとしても条件があります。汚くないこと、これは当然のことです。汚らしい文化はいらない。清潔な文化、これは考え方と形態の両方に求められるでしょう。社会システムとしても全く同様です。 最後に、街並み関する清潔さについて一言だけ申し上げたいのは、よだれを流した窓枠やシミの浮き出た外壁が放置されている。あまり質の高くない建物を良しとするのではなく、時間が経つにつれて味わいを深めるようなデザインの工夫が必要でしょう。水野先生のお話に通じると思いますが、優れたデザインは物事を時間につれて美しくする力であると思います。そういうデザイン力も大事であると考えます。申し上げたかったのは、文化のサービス視線ということですがご専門の船津先生に委ねたいと思います。 安田(コーディネーター) 都市計画がご専門の千葉先生から、儲け主義から喜びへといった経済活動の提案がなされました。船津先生は、国際経済がご専門です。本日はイタリア、金沢、小樽、北海道という枠ですが、小さなまちだけで考えるという時代ではなくなっていますね。小樽から直接世界に発信してもいいわけです。北海道のワインを世界ブランドにというお話も伺いました。地域間の交流も含め、経済的にも確立していくためには、どのような視点が必要でしょうか。 船津(コメンテーター) 私は国際経済学が専門分野ですが、過去10数年、大学で国際交流の仕事をしてきました。もっぱら留学生の交流で、姉妹校を世界各地につくり、交流を促進するという内容です。これが一段落し、今年2月にブリュッセルでEUと日本の学生交流のプロジェクトで交渉役を務めました。 ファビオ先生と5人のパネリストのお話を伺い、私の頭に浮かんだのは、ノーベル賞を受賞したイギリスの経済学者で、ジェームズ・ミードのことです。私はとても好きで尊敬している学者の一人ですが、彼が1960年代に書いた論文の中で、「economic slowth」という言葉を使っています。彼の造語ですが、slowthはslowの名詞形です。 1960年代の日本は、毎年10%経済成長するくらいの高度成長でした。インフラ整備の面でも活発で、財政にも余裕があったし、すごく成長しました。戦後のイギリスはヨーロッパの中でも経済状況が悪く、かなり混迷していました。成長率も低く、どうしようもない国だと捉えられていました。 そんな中で、国際経済学者として著明なミードが書いたのが、「economic slowth」です。要するに、経済のテンポは成熟社会の場合、もっとゆっくりしている。日本の明治維新以降を見て分かるように、90%以上の人が農業に従事していた社会から、産業革命の成果を取り入れ近代化を進めていく。皆が都市に住むようになり、様々な製造業などに従事していくわけですが、経済成長すること自体が目的になってきます。しかし、イギリスのように非常に古い建物やストックがあり、植民地が独立したというような経済の場合、とても成熟化した経済で、人生の価値をもう少しゆっくりしたテンポで考えてみよう。環境問題に触れ、インフラ整備でも人々ののんびりしたテンポに合ったつくり方について書かれた論文です。 あまり注目されなかった論文ですが、彼の論文集の中に見つけたとき、日本の現状によく似ているという印象を持ちました。訳し方は難しいですが、経済をもう少しテンポのゆっくりとしたかたちに持っていく。そうなると、まちのつくり方ももう少し心の豊かさを実感できる。あるいはそれをつくり出してくれる場所と考え直す必要があると思います。 私自身、バブル期のころから世界中を飛び回り、ものすごく忙しい生活を送りました。ロンドンに行って交渉事を済ませ、ヒースローからロサンジェルスに飛びコンファレンスに出席し、また東京に帰ってくる。時差のあるところを、世界一周するような生活を年に何回かしていました。そういう生活の中では、次第に周りがよく見えなくなってきます。小樽に帰ると、すごくほっとする。千歳空港に降り立ち、張碓トンネルをくぐり小樽の港が見えると、自分の家に帰ってきたなあと、ほっとする実感があります。恐らく、世界中の人たちが同じように考えているようで、従来あったような、大都市で忙しい生活をするより、特に我々のような学問をする人間や、芸術家など文化的活動をしている人の場合、自然とゆったりしたペースが調和したようなところで、自分の人生の質を高めたいというニーズが高まっていると思います。 水野先生は、金沢で若い人たちに場所を提供されており、非常に印象深くお話を伺いました。やはり世代を超えて一緒につくっていくことが、まちづくりには必要です。私も90〜91年にロンドンのウィンブルドンに住んでいました。ここはテニスで有名ですが、建物の高さ制限があり、古い建物が残っていて、公園も多く風情のあるまちです。近くにはサッカー場があり、イギリス人は親子でサッカー観戦に行きます。それで親子関係を維持するというか、コミュニティの中で楽しんでいる面があります。札幌にもコンサドーレができて、うちの息子はなぜかサッカーは好まないので、娘と行きます。地域の中でスポーツや文化を楽しみ、世代を超えてそれらを使う。将来、こんなものがあればいいね。こんな活動ができたらいいねというものを時間をかけてゆっくり、じっくり作っていく。日本もそういう時代に入っていると思います。 この夏休み、アメリカに留学していたときの友人が、20年ぶりで電話をかけてきて、これから小樽に行くと言います。日本人の彼は、金沢のオーケストラの客員奏者で、フランスに住んでいるそうです。毎年1回、金沢のアンサンブル演奏で、コントラバスの客員奏者を務めています。今年も演奏旅行があって、少し時間的余裕ができたので、20年ぶりに小樽で会いました。夜遅くまでいろいろな話をし、彼の苦労話も聞きました。そこでとても印象深かったのは、彼はとても苦労して、フランス政府から芸術家に対する奨学金のようなものをもらっているそうです。一定の条件があるようですが、彼の場合、映画俳優にもなっていますし、コントラバスも弾けます。サーカスの音楽ディレクターも務め、年間に一定の芸術活動をしていると、政府がきちんと生活費を出すという仕組みがあります。彼の場合、フランスの永住権をとり、政府から援助を受けています。 ヨーロッパ各国の場合、文化や芸術の振興のため、人に対して惜しみなく時間や場所を提供します。それが社会の中に長い間根づいているから、優れた芸術家や優れた発見をする科学者が、歴史を通じて出てくるのだと思います。日本も多分これだけ豊かになり、その意味ではお金が余っている。しかし使い道がない。困った困ったと言っているわけです。以前の高度成長のイメージで、成長だけを目的とした時代とは異なり、今は、それぞれの人の多様な価値観、本当の夢や自分の生活を高める場所としての都市、そういう場所としてのまちづくりが求められていると思います。 私も経済学者ですから今の経済をどうすると問われると20年前を振り返っています。当時の大平総理大臣がヨーロッパ型の付加価値税を導入しようとしました。オイルショック後で景気回復のため赤字国債を初めて発行し、すでに財政は赤字になっていました。大平総理は片方では田園都市構想として、環境のよい都市づくりを謳ったので、その費用捻出のため、付加価値税の導入を図ったが、選挙には負けました。その頃は消費税や付加価値税に対する認識が日本社会に乏しく、ましてや何か文化的なものをつくるとか、田園都市などといったよく分からないものにお金を使うことにコンセンサスが得られる時代ではありませんでした。 ファビオ先生のお話では、自動車が入れない場所があるそうです。小樽でも一部の道から車を排除すれば、歩くことで再発見する部分がたくさんあります。私も歩いて大学に通うことがありますが、車では見過ごしたものが見えることがあります。小樽の自然の中に、建築家が工夫したような建物とそれに調和している景観などがあって、それらを見出し、価値として蓄積していく。地道なプロセスを始めなくてはならない。北海道はそういうことができる空間、自然がたくさんあるので、我々がまちづくりにチャレンジするとしたら、その視点が大切だという印象を持ちました。 安田(コーディネーター) 時代が、もっとゆっくりした経済を求めつつある実感は確かにあります。90年代の初めはメセナの時代といわれ、文化振興を急いで、あちこちに文化ホール建設が計画されました。当時は、建てることが文化振興でした。楽しむ時間的余裕もなかったし、なかなか人の目が向かなかった。まちづくりでも、ただ生活機能が整っていればいいというのではなく、歩きやすいまちとか、景観を楽しめるまちが望まれています。小樽には景観条例があり、金沢もいろいろな建物がある中で、都市計画が進められていると思います。歩行者と交通の関係はどのように進められていますか。 水野(パネラ−) 金沢は非戦災都市です。戦災都市のほとんどが、戦後の復興によって、碁盤目の自動車に合った都市を作り上げました。終戦直後は、第1回の国体が京都、第2回が金沢で開催されました。要するに、焼けなかった都市から、国体が始まったわけです。美術館や演劇活動も、すぐ始まり、「焼けなくてよかった」という声が上がりました。ところが、20年ほど経過して、他都市が復興し、車社会にふさわしい都市ができます。また、工業や住宅など用途地域で区分した都市ができてくると、新聞の投書欄に「焼ければよかった」という、びっくりするような記事が載りました。 さらに20年ほど経つと、アンアン・ノンノンが、日本のまちを“発見”し始めます。歩いて発見する道づくりなどが盛んになると、また、「焼けなくてよかった」と言います。長距離走で、1万メートルをぐるぐる走っていると、誰がトップか、誰がビリか分からなくなることがありますね。金沢は「1周遅れだがトップに見えちゃうなあ」という感じがあります。 今でも、大正時代に造られた都市計画道路を古いまちの中に通す絵が何本も残っています。そんな道路を止めようなどと言うと、20年ほど前ならとんでもない、自動車が使えないまちはだめだと反発されましたが、最近はだんだん「それもいいね」と言い始めています。きちんと歩けるようにしてくれるなら、都市計画道路はいらないという声が、5割に近づいています。6割になれば、道路は要らないと運動を起こせるので、待っている状況です。一度決めた都市計画をやめるのは、なかなか困難なことで、何とか説得し変えていくことができれば、金沢は先進事例になります。挑戦したいとは思いますが、できている都市計画図は、車に合うようにつくられています。今後のテーマとしては、必要のない部分は手を加えないというように、都市計画を変更したいと思っています。 安田(コーディネーター) やはり暮らしている人の視点から、見つけていくということですか。 水野(パネラー) そうです。声が上がらなければ、動かないでしょう。 安田(コーディネーター) 庄司さんと嶌村さんには共通点があると思います。何かご意見はありますか。 庄司(パネラー) 文化というと、人間による加工が前提にあるという感じがします。人間が手を加えたものだけのまちづくりであっていいのだろうか。すでにおかしなものが建っていたら、それを壊して元に戻す方が大事なこともあります。“歩く”ことに関して言えば、例えば洞爺湖などで宿泊して食事をしても湖畔を散歩できません。もう少し自然を取り戻さねばと思います。ニュージーランドでは、生物多様性国家戦略として、高いフェンスを2千ヘクタールにわたって張り巡らし、外来動植物を一切締め出しています。中国でも渡り鳥の増加を図るなど自然の回復を大切にしています。それに熱心な地方であれば、企業も頑張って利益を出し、税金をたくさん払おうかと思います。今は下手をすると、利益を出しても大蔵省の出張所になって、環境を破壊している状況なので、当社は利益を出す力があっても出すな出すなと言っています。もっといいことに使った方がいいという考え方があります。 環境ビジネスは、同じ経済でも40兆円産業と言われています。小樽の環境ビジネスに携わる人たちは何をしているか。日本全体もそうですが、過去に対する投資ばかりしています。未来につながる投資、フォローアップしているのか。21世紀はそれによって成り立つのではないでしょうか。企業は利益が目的と言われていますが嘘です。社会の中に存在するのが企業です。社会の不満や不足を充足することに、企業の存在根拠があります。目的は社会の中から出てきます。利益は大事ですが目標の一つでしかない。市もサービス業ですから同様なことが言えます。NPOなどに火をつけ油をそそぐようなことが、もっとあっていいと思います。そんなスペシャリストが市にいるのだろうか、環境のコントラクターや川をきれいにする詩人や哲学者であるリバーキーパーがどんどん生まれるようなまちが必要だと思います。 企業評価をする際には、出している利益と出している公害のどちらが大きいか。ショッピングセンターなどは、繁栄すればするほど環境を壊してきている気がします。また、小樽を訪れるお客さんは、繰り返し来ているだろうか。知らない人が、間違って来るようなまちではしようがない。まち全体が自然を含め、本当にしっかりしていれば、まち全体が人をいやす病院になっているだろう。そして様々なことを学ぶ学校になっているのだろう。トレッキングや散歩道によって、運動場にもなっている。そういったことを感じます。 安田(コーディネーター) 庄司さんの理想的なまちのお話に関連して、ファビオ先生に伺います。小さな店は街中にあるようですが、ショッピングセンターの有無や病院などはいかがですか。 ランベッリ(コメンテーター) ショッピングセンターは、イタリアで最近起きた新しい現象です。アメリカから来た文化的な習慣で、まちの郊外にあります。ラヴェンナにも最近、大きなショッピングセンターができました。まちの中には車で行けないので、不便な面もあります。イタリアでまちの中へ行く目的は、散歩や高級品の購入、スーパーなどもありますが、レジャーの面があります。しかし、大量に安いものを購入する時は、まちの外のショッピングセンターへ行く習慣が最近増えてきました。ですから、まちの中に独立している小さい店とショッピングセンターに競争はなく別物であると思います。 また、ショッピングセンターにある店はチェーン店が多いですが、まちの中の店はチェーン店が非常に少ない。これもイタリアの一つの特徴だと思います。それもまちの雰囲気やアイデンティティを守る一助になっていると思います。 安田(コーディネーター) 中川さんは、かなりの年数生活されておられます。実際に生活して、まちのでの移動はどうでしたか。 中川(パネラー) その土地に留まって生活しているときは電車でした。市電や地下鉄があるまちもあります。 安田(コーディネーター) 高齢者の方々は、どうしていますか。冬は寒くても雪は降らないのですか。 中川(パネラー) 小樽ほど積もりませんが雪は降ります。気温は低いですが大雪にあった経験はありません。お年寄りも当然電車を利用します。ウィーンは犬が大変多いまちで、ヨーロッパの多くがそうであるように犬も自転車も乗せられます。すごく素敵なことだと思うのは、乳母車を見ると、必ず誰かが手を貸して乗せてくれます。絶対1人で困ることがないというのは、日本と大きく違う点です。老人に対しても電車が発車しそうになったら、足で板を押さえて戸が閉まらないようにしたり、市民の皆さんは協力しながら公共の乗り物を利用されています。ファビオ先生が言われたような郊外型の大きな店に行くときには、どうしても車がないと難しいのですが、普通の生活なら公共の乗り物もしくは徒歩でも無理はないと思います。 安田(コーディネーター) いろいろなところで演奏活動を行っておられますが、聴衆は演奏会場にどうやって来られますか。 中川(パネラー) それぞれのまちのホールによって違いますが、大きなまちの中の有名なホールは、公共の乗り物か自家用かと思います。古いまちの中にある会場には、駐車場の問題などから車で来られる方は時間的な余裕をもつなど、それなりの準備が必要かと思われます。タクシーもありますし、電車で都合よく行けるようになっていると思います。一度経験した南フランスの田舎は、車のほかに交通手段のないところでした。演奏会の時間になると、ちゃんとお客様が集まっていましたが皆さん車でした。私が聴きに行く場合でも、有名なホールは地下鉄、電車で十分間に合うと思います。時間に余裕がある時などは、古い街並みを歩きながらコンサートの期待をふくらませたりするのも楽しいひとときです。 安田(コーディネーター) 年齢に関わらず、楽しまれているようですね。 中川(パネラー) はい。演奏会によっては、日本同様に高額なチケットもあり、若い人には難しいものがありますが、学生用の立ち見席があります。また、当日まで売れ残ったチケットをどんなに高額なものであっても、極端な例では100円で売ることもあります。当日の何時から売るという情報と勇気と時間があれば、いい音楽が常に聴けるシステムがあります。 安田(コーディネーター) ファビオ先生のお話では、イタリアの小さなまちでも音楽祭などを行っているそうです。 米花さん、ご意見などありませんか。 米花(パネラー) 私は、朝里川地区に住んでおり、NPO法人「ゆらぎの里づくり協会」を運営しています。そちらは全くまちづくりのコンセプトで動いています。行政と市民の関わり合いの中で、仕組みや装置など考えなくてはならないことは、誰でも分かっていることだと思います。現実問題として、なぜ小樽で行われているかといえば疑問があります。官と民が一緒に話し合ったと結果発表されますが、アリバイ作りのための会議を開き、書類が出てきてチャンチャンで終わりという経緯が、過去には非常に目に付きます。次第に変わってきてはいますが・・・・。 小樽市は、3,000平方メートルを超える建物を建築できるように、朝里川温泉地区の用途変更をしようとしています。これは、我々のまちづくりのコンセプトから外れてきています。大型店が進出するより、小さな建物が建ち並ぶ、雰囲気のある温泉地区にしたい。それが由布院や黒川温泉のように、時代に合った要求なのですが、行政はそれを変えようとしている。商業者と住民、市の三者で話し合える場をつくり、将来このまちがどうあるべきか真剣に論議した上で用途変更を考えるのが順序であると思います。それはみんな分かっていると思います。現場で動いている市職員も分かっておられます。なぜか、市という大きなくくりの中ではそうはいかないとなります。私は「雪あかり」で、小樽市とのお付き合いをかなりさせていただき、現場の方々と小樽市という機構の中で動きがとれないというもどかしさを感じます。 安田(コーディネーター) コメンテーターの方々にお伺いします。住民、商業者と行政が同列に並ぶ時代かどうかは不明ですが、三者が連携する場合、難しい部分があると思います。千葉先生、今まではできなかったが、変えられる面もあるという方向性はありますか。 千葉(コメンテーター) たいへん難しい質問です。変わる方向性があるかという問いであれば、あるだろうとお答えします。地域住民の方々の合意形成をどうするか。従来は、ある一定の制約があって難しかったが、最近はいろいろなツールを使えば、ずいぶんやりやすくなってきたようです。具体的に言えば、住民の合意形成をとるための第一は、様々な人に参集頂き意見を伺いますが、人数には限りがあります。この会場には全道から集まっていますが、必ずしも全員ではない。ですから会議という形態自体に限界があります。また、どうやってお知らせするか、その範囲にも限界がありますが、情報ツールを使用すればかなり簡易になってきています。お知らせも意見の収集もいつでもできます。 次に難しいのは、現状認識と現状の課題をどのように把握するか。共通項を見出せるかこれがまた大変難しい。有名なアローの不可能定理は、集団の人間があることを決めようとすると循環順序ができ、1位2位が決まらないことを証明したものですが、理論的にきちんと決めるのは非常に難しい。ですから次善の策として多数決原理など、いろいろなことを考えるわけです。残る問題は納得性です。 次に先程の発言の補足ですが、まちづくりにおいて都市施設整備に関する側面です。都市施設とは、まさに都市の文化を支える非常に大きな装置であり、物理的な施設であります。ただ、こういったものは絶えずメンテナンスが必要です。具体的に言えば、都市の活動を支える道路、公園、上下水道など都市計画上でいう都市施設です。これは当然である。今あるものが使えなくなったらどうする。ゆえにメンテナンスが必要であるという議論はよくあることです。私が申し上げたいのは、別の側面でのメンテナンスです。それは、形態的、物理的、装置的な維持管理ではなく、システムそのものに対するメンテナンスの必要性です。 例を挙げますと、中川さんがチューリッヒの電話ボックスをご紹介されました。チューリッヒの湖のすぐそばにデパートがありますね。その背後に、チューリッヒ工科大学があり、傾斜地になっています。そこにはポーリバーンという赤いケーブルカーが走っています。これはヨーロッパでほぼ初めて、都市の中で使われたケーブルカーです。つまり、新しい交通システムをそこに導入したわけです。交通とはシステムですから、空間だけの問題ではない。交通に関して議論すると、この辺りでずれが生じるのですが、その時代の市民ニーズに合致し、必要な交通システムをどのように提供し、メンテナンスしていくか。これは、我々交通計画分野の者が考える、最重点の問題です。つまり、システムとして絶えず新しい工夫をしていかねばならない。 もう1例は、小樽市への提言になるかもしれませんが、非常に大きな議論になっている交通バリアフリーの問題です。今、車というのは悪である。都市交通の一番の悪玉は車であるという議論があります。ある側面ではそのとおりであり的を射ている。ただし、あまりにも過大な車依存症にかかっている場合です。車は、障害者にとって非常に助けになる道具です。ずいぶん昔に建築家の上田篤さんが「つぼぐるま」として、ある新書の中に書かれています。現在は、電動車椅子よりもう少し大きい小型の電気自動車が実現しつつあり、排気問題もなく様々な面で便利な乗り物が使われるようになるだろう。 また一方で、電動車椅子などのツールがどんどんできてくると、空間上にどうさばくかが大きな問題になります。今は過大な車依存症ですから一つの道路空間の中で、車が使用する空間のボリュームが大きすぎます。流入する車をどうさばくかで、歴史的にそうならざるを得なかった。それを少し抑えようと始まったのがトラフィックゾーンシステムです。ファビオ先生が1969年ごろと言われましたが、ヨーロッパにゾーンシステムが展開したのは、まさに1970年代初めの頃です。ブレーメンを皮切りに、大きなまちで話題になったのはヨーテボリで、大成功をおさめました。つまり、新しい交通のシステムを導入したわけです。 ただ、最近はこのゾーンシステムに誤解が生まれていると思います。このシステムの成否を分けるポイントの一つは駐車場システムです。ヨーロッパでもどこでも駐車をどうするか大きな問題です。ヨーテボリでも東西2ヵ所に大規模な駐車場を新しく作り、ゾーンシステムをうまく展開したので成功したわけです。それなしに、ただ空間的にシャットアウトして済むわけではありません。さらに、将来的には様々なモビリティが展開されてくる。これを混合交通と呼びます。つまり、一つの空間の中を好き勝手に使ってもうまくいかない。交通の秩序化を図らねばなりません。そのためには、きちんとしたシステムの考え方、つくり方が問題になってきます。 結論的に言えば、もう少し道路の使い方にメリハリをつけるということです。小樽の場合は、フットパスをうまくつくれる可能性がずいぶんあります。そのとき問題になるのが、街路のスケールの問題です。対面関係など、いろいろな楽しみを構成するための街路上の空間スケールがあると思います。開放的だからとあまり大きな空間にしすぎると、交通のシステムとしてうまくいかない。広場機能として見るべきところ、交通の流動機能として仕立てるべきところとメリハリをつけて都市交通全体を考えることが必要です。 安田(コーディネーター) 歩くことはいいですが、高齢社会の中歩けなくなる場合もあります。北海道は冬もありますし、古いまち並みを大切にしながらそこに暮らすには、現実問題を考える必要もあります。ファビオ先生、今回は行政、企業に限ってお話を進めてきましたが、イタリアで、例えば古い建物を活動に使用する場合、企業でも行政でもない仕組みなどありますか。また、その活動に対する資金援助があればご紹介ください。 ランベッリ(コメンテーター) 様々な組織や、社会的に活躍しているグループがあります。イタリアでは数年前から若い人たちの実業意欲、社会意欲を高めるため、工夫がなされてきました。一つは、若い人たちで会社を設立した場合、面白そうなプロジェクトであれば借金というかたちにはなりますが、様々な基金やお金がもらえます。 州によって違いますが、ラヴェンナでかなり促進されているのは、コープ(組合)の形態で若い人たちが組織をつくる際に種々の基金があります。ヨーロッパから来る資金もあるし、州、県、市からも若い人の経済力を支える援助があります。私はあまり詳しくないですが、委員会によって将来性が望めるプロジェクトに、それなりの基金を出すことになると思います。利得が少ないので、数年かけてペイバックするかたちになります。 イタリアを含めヨーロッパ全体では、失業率の高さなどの問題が指摘されていますが、アイディアがあれば若い人にも援助があります。失敗する人もいれば成功する人もいます。若い人にどんなに素晴らしいアイディアがあっても、お金が回らない日本の現状とはだいぶ違うと思います。がめつい大企業なら雪崩のようにお金が行きます。これでは経済力は発揮できないし、まちづくりも興せないと思います。お金がないから新しいアイディアを考える意味がないし、諦めてしまいます。結局、公務員を目指す若者が多いようですが、非常に残念で悲劇的な状況だと思います。いろいろなレベルによる援助があれば、間接的にまちづくりに良い影響を与えると思います。 安田(コーディネーター) それでは、意見交換に入りたいと思います。まず、手許の質問シートをお読みしますので、質問者から補足説明などあると助かります。 水野先生へのご質問です。 『市民の文化活動を活発化していくためには、官・民の信頼関係が大切であるとトークの中にありました。余暇・余生の充実化を図る上で、健常者だけでなく、障害を持った人や、施設で生活を送っている人も文化の創造の担い手になっていくべきと思っています。どのような機会をつくっていくべきと思われますか。ある程度経済的なフォローがなければ、社会的弱者と呼ばれる人たちの文化活動への参加は難しいと思います。芸術村で取り組んでいることがあれば、教えてください。』ということです。 水野(パネラー) 例えば、演劇の指導者はコミュニケーションをする力を持っています。その人たちが老人ホームなどを訪問し、介護者にコミュニケーションの仕方を教えています。演劇から発生する人間の力ですが、どうやって皆に話してもらうか、こちらの意思を伝えるか、そういう訓練をし、育った人たちを派遣する動きが広がりを見せています。実際的には、ときどき高齢者のアート体験や、車椅子で味わえる演劇などがあります。目の見えない人の陶芸では、手の感触だけで造るので、素晴らしい焼き物ができます。その他にもいろいろありますが、単にアートの貸し館ではなく、市民ディレクターたちの自主企画が幅広い広がりをみせていますから、可能性は十分あると思います。市民芸術村では、アートを通じて様々な人への働きかけを行っています。 安田(コーディネーター) 次も水野先生への質問です。 『芸術村の運営に際して、あるいは様々なグループの自主運営に際し、何か困ったこと、困難を感じた事例がありますか。』 いろいろな問題を乗り越えて今に至っていると思いますが、いかがでしょう。 (質問者) 大変ためになるお話を伺いました。何か新しいことを始める場合、困難やネガティブな問題があるだろうと想像し、その困難を乗り越え達成するという美しいストーリーをお聞かせください。 水野(パネラー) 現実の人間関係はやはりドロドロしており、例えば、ディレクターは誰が務めるかなど、なかなか難しいですね。最初は「お前がやれ」などと謙譲の美徳を発揮していましたが、ディレクターはボランティアなので、3年やるとくたびれます。私も様々なボランティアを経験しましたが、3年同じことをすると4年目はクタクタになります。だいたい3年で交代になりますが、市民芸術村が脚光を浴びるようになると、「俺がやりたい」と出てきます。「お前の方針はどんなだ」と議論が起こります。 私は、人間的にドロドロしていると捉えず、少しずつ成熟している、成長していると捉えたいと思っています。自主企画をしよう。貸し館だけではだめだ。また、底辺を育てるため高校の演劇の先生を集めよう。照明などをサポートするボランティア隊をつくろう。いろいろな提案が出てきます。そして、「それをやるなら、お前に任そう」となってきて、少しずつ成長してきていると思います。 ボランティアを3年された方は、少しの間、腑抜けのようになってしまいます。会社でも「ちょっとボーッとしてるな」などと言われるそうですが、1年くらい経つとまた立ち直って、今度はまちで何かしようと、別のボランティアを始めます。そういう意味では、広がっていっていると思います。まだ美しき物語になるには、時間がかかる作業だと思っており、10年経ってみたら、こんなかたちになったよと報告できればいいと思います。まだ6年目で、3代目のディレクターを選ぼうとしている最中です。ほとんど民間のボランティアですから、選び方など永久に定まらないのかもしれません。ただ、いろいろなディレクターが、3年毎にそれぞれ試みを行っていくのは、非常に面白いシステムだと思っています。そして市民芸術村がどこにたどり着くか、行政もじいっと見ていると思います。 安田(コーディネーター) 次は、『私は、まちのアイデンティティについて非常に関心を持っています。文化という切り口で見た時、そもそも文化的アイデンティティは存在していたのでしょうか。それとも、今後の取り組みを通して形成されていくものなのでしょうか。』 また水野先生へのご質問ですが、とても大きな内容で、今回のテーマに最も関わる問題かもしれません。 (質問者) 今、全国各地で過疎化、市町村合併が話題になっています。その際、まちのアイデンティティが非常に重要になってくると思います。文化的な切り口でのアイデンティティというものは、十分あり得る話だとは思いますが、そもそも実体として存在しているのか、それとも、これから規範として形作っていくものなのか、その点をお聞きできればと思います。 水野(パネラー) 私の分かる範囲でお話します。日本の各地では、自分のまちがどんなまちなのか、という自己確認の作業を20〜15年くらい前に行ったと思います。「地方の時代」が来る前後です。少なくとも北陸を見ると、ほとんどのまちがアイデンティティを江戸時代に求めています。江戸時代の文化、まち並み、産業、教育体制が大半です。明治維新以降できたものは非常に希薄で、半分以上が江戸時代に求めています。そうすると、もしかしたら江戸時代は「地方の時代」だったと言えるのではないかと思っています。各藩が、行政、文化、教育、都市づくりなど、いろいろな政策を行っており、その藩に従って各地域が何かを担っていた部分があるので、地域特性などを探しやすい。 では、北海道で何をしたらいいか私は迷っています。北海道でアイデンティティは、なかなか難しいと思っています。昨日、小樽の商工会議所を見てきましたが、黄色い石が貼ってありますね。石川県産の千歳石と説明があり、石川県では外壁には使わないなあと思いながら見ていました。そういえば、福井や石川、富山の人もずいぶん小樽へ来たという理由で、小樽と北陸がつながって、そこに何かアイデンティティを発見できるかもしれないとは思いました。そうすれば、江戸までたどることができます。 明治維新以降の各地方は、中央集権国家に対して何ができるかに変わっていきます。その時代に対して何ができるか、国家に対して何ができるか、と変わっていくのであって、我々のために何ができるかという問いにならないところがあります。特に、戦前、戦後、復興、高度成長と明治維新以降110年くらいは、そのような姿勢であったと思われます。先ほどアンノンの話しをしましたが、地方の時代、自己確認の時代であり、それ以降、初めてアイデンティティを問うようになった。そうすると、どうしても江戸時代に戻ってしまうというのが、私の答えなのですが…。 私たちがまちづくりで教わったのは、池田町のワインなどです。“ないから造る”、これも一つのアイデンティティだなと思いました。金沢は伝統文化はあるが、若者文化がないから金沢市民芸術村をつくったという面があります。“ない”というのも一つのアイデンティティだと思っています。 (質問者) 北海道の都市のアイデンティティという意味で、北海道のまちは、明治以降、何か目的があって一斉につくられてきたと思います。その当初の目的で、今は消えようとしている部分があると思います。その場合、新しいアイデンティティを見つけることができるのか、それとも、そもそもアイデンティティは消えていないのかお聞きしたいと思います。 安田(コーディネーター) たいへん本質的な内容になってきましたが、文化が専門のファビオ先生、文化的アイデンティティという言い方が正しいかどうかも含めてお願いします。 ランベッリ(コメンテーター) これは非常に難しい問題だと思います。先ほど申し上げたように、文化はとても使いやすい言葉になってしまいました。本当にそこまで、あらゆる場面で使う必要があるのかとは思います。アイデンティティとは、自分の中で一つの共同意識として、例えば学校教育を通じてだとか、ある地域に住むことによって、潜在的に吸収することでもあると思います。その潜在的に吸収してきたものを意識的に考えようとするとき、例えば自分のアイデンティティはまちの産業なのかという単純な考え方では不満があります。 日本でも、まちそれぞれにスローガンやモットーを持っているようです。企業も大学もそうですが、それはアイデンティティになるのでしょうか。あまりに単純でアイデンティティとはもっと複雑で見えないものです。そのスローガンの周りにある目に見えないものの中に求めるべきかもしれません。まちづくりに際して、まずアイデンティティのことを考えるのではなく、実際の現場に何があるのか、人々は何をやっているのか、求めるものは何か、具体的な部分から考えた方が、建設的・生産的かもしれません。 船津(コメンテーター) 北海道のまちのアイデンティティについて言えば、私の父方の祖父は静岡県の伊豆、松崎町から十勝に入植しました。北海道の地名を見れば分かりますが、現在の北広島市は広島町と呼ばれ、広島県から開拓移民が来ました。お隣りの仁木は、前田藩から来た人が開拓しました。北海道には小樽や札幌のように、アイヌの人たちの言葉が由来の地名と本州から移民してきた人々が、古里の名前をつけたものがあります。基本的なアイデンティティは、この二つだと思います。 市町村合併の話題が出ましたが、私自身、小樽のアイデンティティは何かと問われれば、すぐ防波堤だと答えます。札幌農学校の二期生だった広井勇先生がアメリカに留学し、港湾技術を身につけられ、あの防波堤を作りました。100年経っても、そのコンクリートの実験をしている。北海道のまちは、日本の近代化が凝縮したかたちで形成されています。本州に行くとお城があり、江戸時代、幕藩体制の藩が初歩だと思います。北海道は、松前藩を除けば、アイヌの人たちが住んでいたところに移住し、まちをつくったので、その意味ではアメリカやオーストラリアなど、9世紀後半から移住者がまちを形成した国の都市と似たメンタリティがあります。 日本全体で経済が低迷し、人口が減少していく。小樽は60年代から減って4分の3くらいになっていますが、今後、これが日本中で起こるわけです。そのとき、都市の運営の仕方として、コストをシェアしなければならないので、合併などの話が出てきます。合併するとしたら、どの区域でどのようなアイデンティティ、どのような理由で合併するのかが問題になってきています。この答はなかなか明確には出せないし、現代の若者が自分たちの住んでいるまちを将来どのようにしたいか。夢を持って、こういうまちにしたいというものがないと、単純なコストの計算だけで合併しても、いいまちはなかなかできないという印象を持っています。 安田(コーディネーター) 千葉先生、文化の本質に触れる難しい話題になってきたのですが。 千葉(コメンテーター) きてほしくない質問がきてしまいました。都市文化のアイデンティティとして考えたいと思います。もっと言って都市の個性というように考えましょうか。私は二つの側面があると考えます。都市の個性がどのようにして感じられるか。一つはライフスタイル。もう一つは都市の景観です。都市のライフスタイルを形成する要素は三つあると思います。一つは気候風土、もう一つは、その時代ごとの社会的な価値規範です。三つ目は、都市に住む人たちの相互作用の中から作り上げられてくる、つまり、構成メンバーの集まり具合によって違ってくると考えた方がいいでしょう。これを補足すると、同じ考え方を持った人が3人いる、あるいは、別の考えを持った人が10人いる、この集まり具合で構成員それぞれの考え方、顔つき、その他が同じであっても、構成メンバーが変われば全体のスタイルが変わるのは当然です。 また、都市の景観上から都市の個性が感じられる場面は、その都市のライフスタイルを反映したものが都市の景観であると考えられます。都市の個性を形成する一番大切なものは、都市のライフスタイルであろうと思います。そのとき、都市の個性が潜在的、本来的にあるものなのか、あるいは後から形成されるのかを考えると、気候風土は本来的に内在するものです。あとの二つは変化するものです。 そして社会的な価値規範の点から言えば、水野先生は、江戸時代の地方の独自性、文化について語られました。私も時代によって変わると思います。江戸時代は幕藩体制であり、独自の文化が形成され、地域も独自のライフスタイルを持ったと思います。今、この時代になって、グローバリズムと言いますか、流通が国際的な展開を見せるに至って、それに合わせて、社会的価値規範がかなり均一化されてきている気がします。この部分では没個性化がかなり進んでくるでしょう。さらに考えれば、それぞれの構成メンバーの価値規範の持ち方、有り様によってその都市のライフスタイルが変わってくるし、都市の文化の個性も変わってくる気がします。答を言えば、潜在的部分と後天的な部分、両方相まって展開されるのが都市のアイデンティティであり、文化ではないかと考えます。 (質問者) ファビオ先生にお伺いします。イタリアは歴史が長く、古い遺産がたくさんありますが、新しく創造に向かうとき何を残すべきか。土地や場所も限られるでしょうし、新しいものをつくる際、古いものを取り壊すなど犠牲にしなければならない。古い建物なら補修するのか、新しいものに建て替えるのか、選択を迫られることがあると思います。文化の持続や伝統を考えるとき、その選択の基準となる考え方があればお教えください。 ランベッリ(コメンテーター) これも非常に本質的で、なかなか難しい質問です。建物についてなら答は比較的簡単です。すでにある建物は壊してはいけないという法律があります。20〜30年前の建物は、高速道路などを作るときは壊します。しかし、重要な文化財であれば壊してはいけないので、高速道路の方を変更します。今、建てられているアパートや団地は、永久的なものという前提で建築されています。壊してまた建て直すという考えは全くありません。 建物に関してはそうですが、交通の方向性などは、時代によって、またまちの政府の政治政党によって変わります。イタリアでは政治政党が非常にはっきりしており、方針を明確にする伝統があります。例えば、工場の廃虚をどうすべきか。取り壊してマンションにするのか、公園にするのか、博物館にするのか、ある程度選択の余地があるし、政治的な方針によります。 非物質的、文化的な生産や、ものづくりであれば、伝統的な産業がたくさんありますが、漁業でも魚の獲り方など昔の技術などは、近代的な方法に代わられつつあります。しかし、生かすべき伝統が次第に現れてくるのです。例えば、昔の紙の作り方や、工芸品などだったら、時代によって必要性が感じられるので、現代的感覚で加工の技術を生かす動きも少なくありません。 (質問者) 語弊があるかもしれませんが、実際にまちづくりを行うのは大人たちです。しかし、まちづくりに関わる世代は変化してくると思います。今、子供である世代が、将来のまちづくりに参加していくと思いますが、現在、個人の価値観は非常に多様化しています。大人たちのしていることを、子供たちは分からない。その逆もあります。大人と子供の考え方に差異があると思いますが、まちづくりを子供たちに伝えていく最良の方法は何でしょうか。 米花(パネラー) 「雪あかりの路」で考えれば、おもてなしボランティアの方々は、ほとんど定年を迎えた55歳以上の人たちです。昨年は僅かですが、高校生が1・2人、大学生が5人くらいいました。普段話さない年齢の方々と話す場がお互い広がります。私は47歳ですが、高校生と話す機会はほとんどありません。大学生もそういう仕事がらみでなければ話すことがありません。始終話していると私も変わりますし、相手も変わるので、そうした機会をなるべく多くつくっていく。また、積極的に加わってくれれば有り難いという気がします。 水野(パネラー) 私は大学や、市民芸術村で若い人たちと付き合っていますが、音楽会にしても、演劇にしても、中年の男は絶対来ません。これが一番問題だと思っています。文化のまちづくりに対して一番の壁は中年の男です。江戸時代で考えると男たちは道楽ばかりしています。お華もお茶もほとんど中年男がやっていました。芝居道楽もそうですし、サツキを作ったり、菊や朝顔を作るのもみんな男です。普請道楽もお庭道楽もお道具道楽もみんな男です。要するに男たちがうんと遊んでいるんです。 ところが私は61歳で自分の仲間、高校・大学の同級生、みんな定年ですが、何もすることがない。困っています。何も趣味がない、遊べない、働くことだけやってきたわけです。これを変えなければだめですね。遊ぶと美意識なり価値観なり、何か伝わるものが必ずあると思います。演劇などに加わっている年輩者もたくさんいますが、参加しない人が大勢いるということが、コミュニケーションできない最大の原因だと思います。文化というものを介在し、もっとみんながコミュニケーションできるようになればいいと思います。地域に文化を育む必要性は、そこにもあると思います。ですから、ぜひ皆さんも何かで遊んで、趣味をたくさんつくり、一つや二つの道楽を持ってほしい。 昔なら、必ず小唄などやってお師匠さんに惚れた惚れないという話がありますね。いつも何か遊んでいる証拠です。熊さん八さんも遊んでいますし。皆さん自身が、これが文化か、楽しいなというのがない限り、文化のまちづくりとか、文化で交流はあり得ないと思います。そういう意味で中年男ガンバレ!という感じです。 安田(コーディネーター) どうでしょう。おじさん二人が答えてくれましたが、質問の答えになっていましたか。それでは、最後にコメンテーターの先生方に一言ずつまとめをお願いします。 千葉(コメンテーター) 最後の質問に少し関連しますが、私流に質問をデフォルメすれば、世代を超え、まちづくりを通じて伝えねばならないことは何かということになります。それは、社会的な正義、ずいぶん古いことを言い出したなと思われるかもしれませんが、まさに正義、正義感、そういうものだろうと思います。つまり、優しさや美しさ、様々な文化を楽しむ心、それらを全部含めて、その時代を通じて生き続けるもの。それはやはり正義であり正義感でしょう。それを具体的なまちづくりを通じて世代を超えて伝えることが、文化の一番大切で本質的なことだという気がします。 水野先生が言われた「中年男よ、ガンバレ!」について少し申し上げると、私は冒頭に平岡地区でのアンケートを紹介しましたが、一番お金を使っているのは中年で、1万3000円も使っているとお話しました。水野先生の話に照らすと、中年男はいったい何にお金を使っているのか。はっきりしているのはゴルフです。ゴルフに使っているんです。ひどい人になると月に5〜6万かけています。それなら、もう少し別なところにたくさん使ってほしいと思いますが、その気持ちはないのだろうか。実はあるんです。 「このようなイベントに、いろいろ参加してみたいですか」という質問には、意外にもチャンスがあればやってみたいと答えます。ゴルフクラブを捨てて、三味線のばちを握る日もそう遠くないのかなと思いますし、是非そうであってほしいと思います。 船津(コメンテーター) 本日はいろいろなお話をお聞きして大変勉強になりました。私自身は最近、妻に連れられてバラ園を回っています。札幌では地崎バラ園が有名ですが、岩見沢にもバラ園があり、私の感想ではそこが一番いいと思います。入場料は無料なので皆さんも行かれるといいでしょう。行政がやるNPOがやるという話が出ましたが、バラを楽しむのは、自分の庭先でもできます。妻を見ていると、バラを植えて近所の人たちと話題にしています。忙しいときには、私も花を見る余裕などありませんでしたが、少しゆっくりそういう時間を持つと、今まで知らなかったことや人生の楽しみ方が分かります。その意味でこれからの北海道のまちづくりは、いろいろな価値観があると思いますが、もう少しゆったりしたスペースの中で、皆が人生を楽しめるような場所がたくさんできたらいいと思いました。 ランベッリ(コメンテーター) 最後になりますので、非常に緊張します。まとめというより花火のようなメッセージを贈りましょう。今日は、交流と文化がメインになりましたが、私にとって重要なテーマである教育が出てきませんでした。それは非常に興味深いことだと思います。つまり、今の日本で文化と教育とは全く関係ないレベルにあるのかもしれません。私は学生に付き合うこともあるし、様々な人とお話すると、文化とは一つの「暇」つまり勉強や仕事がないときに、興味があればやることという感じでこれは根本的に間違っている気がします。文化をもとにまちの活性化を目指すとしたら、まず教育から出発しなければなりません。過言かもしれませんが、日本における教育とは、試験勉強を指すようにほとんど意味や必要性のない情報を暗記し、試験に受かれば完全に忘れるという方式になっている場合が多くあります。 この教育制度の中では、文化が生み出せない状況だと思います。文化という意義を考え直すことによって、試験勉強のためでなく創造意欲を必要とし、個性を出せるような試験制度を取り入れなければならないでしょう。その一環として、必ず文化的刺激が生まれてくると考えます。 もう一つのメッセージは、若い人たちにチャンスを与える必要性です。例えば、市役所の文化担当で30歳の方はいますか。あるいは市長に40歳の人はいますか。若いからいいということでなく、若さは様々な世代のミディエーションの役を果たせるかもしれないので、もっとチャンスを与えなければならないでしょう。若者たちは政治に全く興味がないようですが、国にとっては大きな損失です。まちの運営、使命に興味を示し、積極的に参加しない限り、意味のある地盤の強固なまちづくりはできないでしょう。 安田(コーディネーター) 有り難うございました。私の不手際で時間が少しオーバーし申し訳ありません。このようなディスカッションは、最後の20分が盛り上がるのが通例で、惜しくて切り上げることができませんでした。皆さん、豊かさ豊かさと言葉で言ってはいても、まず、個人的に楽しむ時間、喜ぶ時間をどれだけつくり、生活の中に取り込んでいるのか。そこからまちが始まっていく。まちの使い道が見えてくると思います。 今日は本当に長時間、有り難うございました。 司 会 長時間にわたり、たいへん貴重なご意見を賜った出演者の皆様に、改めて拍手をお願いいたします。どうも有り難うございました。 ここで、これまでの会議を振り返り、北海道都市学会理事、企画委員長でもあります淺川昭一郎より総括させていただきます。 |
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